「生活」という私的なものごとに関する心の内を、「批評」という他者的な視点で語ることで届く言葉に変換してきた『生活の批評誌』。昨年8月に発行された“生活の批評誌no.4”(以下、no.4)のテーマである「わたしたちがもちうる“まじめさ”について」は、他人には他人の事情があるからと深入りしないことを「まじめさ」と定義し、そのまじめさを失わないままそれでも他人と関わることを手放さない葛藤を扱っていて、少なからず自分の中にも近しい葛藤があるように感じて夢中で読み進めたのを覚えています。
わずか300部、文学フリマでの手売りをメインにする『生活の批評誌』は「人に書くことを依頼する時の暴力的な感じを許すには、「紙にします」と宣言する覚悟が必要だったんです」という依田さんの思いから、紙でできた雑誌というメディアになりました。確かに、いつでも書き換えられてリンクが切れてしまえば二度と読めないWebの文章と違って、インクで紙に刷られる重みが紙のメディアにはあります。そんな依田さんの言葉には常に他人との関わりに生じる「重み」への責任が滲んでいました。
依田那美紀(いだ・なみき)
1993年石川県生まれ。静岡大学人文社会科学部を卒業後、大阪府を経由して現在は京都府在住。2017年に『生活の批評誌』を創刊。2019年、Zine『シスターフッドって呼べない』を発行。2020年、井上彼方編『社会・からだ・私についてフェミニズムと考える本』(社会評論社)に参加。週4.5日の稼業の合間に批評・エッセイなどを書く。seikatsunohihyoushi@gmail.com
他人に嘘なく言いたいことを言えるようになるために
依田さんが『生活の批評誌』というメディアを始められたのは、どういうきっかけだったのですか?
小学生の頃から手書きの小さな雑誌をつくっていて、大学在学中にはフリーペーパーをつくる団体に所属していたのですが、その過程でふと、「みんな意外と周りの人の顔色を気にしてあまり言いたいことを言えていないんじゃないか?」と思うことがあったんです。そんな人たちに「私とあなたの言いたいことを一緒に言おうよ!」と……ある種自分の傲慢さでもあるのですが、そんなことをずっと思っていて。大学院を卒業するタイミングでこれから書く場所がないなと思った時に、自分や誰かが言いたいことをちゃんと言えて、かつ私が誰かと文章で関わり続けることができる場所をつくっておきたくて、『生活の批評誌』ができたのかなと思います。
依田さんにとっての書くこととは、「言いたいことを言う」ことなんでしょうか?
そうですね。
言いたいことを一緒に言う人達と『生活の批評誌』編集部を運営しようとは思われなかったのですか?なぜひとりでやっておられるのかなって。
書き手に対して「組織」として向かい合いたくないのかもしれないですね。複数人の編集部員がいる雑誌だと、書き手に原稿を依頼する前に「なぜこの人に書いてもらいたいのか」をまず編集部員に説明して筋を通す必要がありますよね。他人に伝える言葉に変換することはとても大事だとは思うんですよ。でもその過程で他人に通じやすい言葉や感覚だけを拾ってしまって、言葉にならない伝わりにくい感覚や考えを無意識のうちに切り捨ててしまう恐れもあるように思うんです。私が「本当に言いたいこと」に固執して雑誌をつくっているのは、私自身が隣にいる人に本心を簡単に隠せちゃうからで、みんなも隠して生きてるんじゃない?って思っているから。だから、雑誌をつくる過程で「言いやすいこと」を選ぶ代わりに「言いたいこと」を切り捨てるようなことはしたくないし、今の私にとって「組織」はそのリスクを感じるんです。
依田さんが雑誌作りで「関わりたい誰か」というのは書き手の方なんですかね。
確かにそうですね。……読者のことはあまり考えていないかもしれないですね(笑)。「書き手」という他者とダイレクトにやりとりする中で、出来る限り嘘がないように関わることが毎回自分にとっての勝負だと思っています。編集者である私の一言で文章が大きく変わってしまうことは、文章を良くしていくために必要な作業であることもあるんですけど、書き手が本当に言いたいことからずれてしまったり、良くない作用を及ぼすこともあり得ますよね。書き手との関係が破綻しちゃうことも頭をよぎる中で、どうやりとりするかを真剣に考えながら、最後はエイッて思い切って「言ってしまう」という訓練をずっと続けている感じです。
関わらないというまじめさを越えていく
no.4のテーマである「わたしたちがもちうる“まじめさ”について」は、『生活の批評誌』をつくる依田さんの姿勢にもリンクするように感じたんですけど、なぜno.4のテーマに据えられたのでしょうか?
私は他人に対して「簡単に踏み込まないというまじめさ」によってあえて距離を取る、という態度を選ぶことが多くて。それは、自分の中にある「正しさ」の基準を他人に押し付けたくないとか、自信がないとか、いろんな葛藤から生まれた態度なんですけど、宮地尚子さんの『環状島=トラウマの地政学』という本を読んだ時に、傷やトラウマを抱えた人にどうやって触れていいか分からないからそっとしておくとか、自分には関わる資格がないから離れるとか、そういう態度とは別の態度はあり得るんじゃないかと思ったんです。この本では、内側が落ち窪んだドーナツ型の島(環状島)をトラウマの発話空間に見立てています。トラウマを負い、発話から疎外され島の落ち窪んだ部分(内海)に沈んでいる当事者の声を、島の外にいる非当事者が傍観者として取る無関心な態度によって封じて(沈めて)しまうことの危うさについて書かれていました。それを読んだ時、私のまじめな態度も、ともすれば内海の声を沈めてしまう外海になってしまうんじゃないかと思ったんです。「言いたいことを言いたい」「他人と関わり合いたい」、そんな想いで雑誌をつくっている私は、無関心と地続きになりかねないまじめさをなんとか誠実な形で踏み越えたかったんだと思います。それがno.3までをつくってみて明確になったので、no.4では雑誌の特集テーマに据えることに決めました。
その「まじめさ」はno.4をつくってみてどのように踏み越えたと思いますか?
まだ「踏み越えた」とは言い難いのですが、no.4に掲載した仙台を拠点に活動されているアーティスト瀬尾夏美さんへのインタビューは印象的でした。瀬尾さんが、震災で被災した過去を持つ人がいたとしても、「被災した」という事実だけでその人が生きているわけじゃないって気づくことが大事だとおっしゃっていて。当たり前のことではあるのですが、私が大事にできていなかったことだと思ったんです。自分の中のまじめさを一人思い悩むのではなく、相手の複雑さや多面性に接して、息長く関わり合う態度のあり方に出会えたことは大きかったです。
no.4のあとがきに、「今まで関わった人とか今まで読んでくれていた人にとっては、居心地の悪い号になったかもしれない」と書かれていましたが、それまでの号とのどんな変化に関して感じられていたのでしょうか?
私は長らく自分の個人的な経験を軸に語るエッセイに対して、手放しで称賛できない複雑な気持ちを持っていて、だから自分が書くものも、雑誌の軸もいわば客観的な「批評」であることにこだわってきたんです。でもno.4の企画について相談したある人に「「まじめさ」は共感してもらえるテーマだと思うけど、そもそも共感を得ることは『生活の批評誌』がやるべきことなのか?」と言われて。確かに、私がno.3までに示してきた「自分語りだけじゃダメだ」というスタンスを面白いと思ってくれていた人にとっては、「まじめさ」をめぐる個人の小さな経験や葛藤を直接的に扱うno.4はそれまでのイメージとは違うだろうと。そこに居心地の悪さを感じる人もいるだろうなあと思ったんです。
それでも、依田さん自身が自分語りの方にもう少し近付こうと変化されたのはどうしてだったんでしょう?
「自分の中の正しさ」に自分一人で葛藤する態度は確かにある意味自閉しているとも言えるのですが、その態度を自分で勝手に「取るに足りない個人的で些末な問題だ」と決めつけて向き合わず、目をつぶるのは違うよなと思ったんです。それは「こういう語りは軽んじられて当然」と自分の中で序列を作ることでもあるし、その基準が他人にも向きかねない点でとても暴力的です。自分の中に確かにあるのに、勝手に軽視して黙殺している言葉をすくいあげること、そして誰かの中にもあるそれを丁寧に集めることを真剣にやらなくちゃいけない、と思ったんです。
書き手の方との関係性は、no.3までとno.4では変わりましたか?
特にno.4は、依頼した誰もが「まじめさについてこう考えている依田那美紀」という人間の隣に立って、「自分には何が書けるかな」って考えたことを書いてくれたように感じています。真正面に向き合うんじゃなくて隣に立っているような距離感というか。集まったどの原稿も、書き手にとって切実な問題をそれぞれの言葉、形で書いてくれているように感じて、一見テーマを真正面から扱っているようには見えないものも、私の中だけの問題だったものが広がって変化していくような実感がありました。
他人に迷惑をかける覚悟が、雑誌をつくる意志になった
書き手の方に問いかける時に、どんなことを念頭においていたのですか?
本来は企画書を固めてから書き手に依頼するのが一般的だと思うのですが、no.4ではたたき台のたたき台レベルの未完成な企画書を書き手候補含む色んな人に見せて、意見をもらう時間をたっぷり取りました。no.3までは「ひとり」と言いながら、企画書に固めるまでの部分で恋人に協力してもらっていたんです。でもすでに親密な関係にある人に企画にかかわる根幹の部分を依存することは、私が雑誌づくりでやりたい「他人に言いたいことが言えるようになる」ことと矛盾しているんじゃないかなと思い直して。親密ではない人に意見をもらうのが怖かったんですね。だからno.4では企画が言葉になりきる前のウジウジと考える部分をどこまで他人に晒せるかやってみたんです。結局話し合いの過程で企画書を3回くらい書き変えて、途中で私の長い長い手紙を挟み……。これでは5月の文学フリマに発行が間に合わないと気づいて、泣きながら執筆者のひとりに「発行を延期したい」と相談したこともありました。その人は「私はあなたのGOだったらいつまででも待って書きますよ」と言ってくれました。
no.4発行の〆切というのは、文学フリマでのリリースに合わせていたのでしょうか?
そうですね。単純に文フリに出展したいというのもあるんですけど、ひとりで作っていると自分以外の何かに終わりを決めてもらわないとダメで、文フリ出展から逆算した印刷日を厳守することで完成を守っていたんです。だから文フリに決めてもらった発行日を延ばしたら、間延びしてかえってつくれなくなるんじゃないかと怖かったんです。でも、それよりも完成の主導権を売り渡しちゃうことの方が怖いなと気づいて。
文フリに〆切を握られている場合じゃない、と。
そうそう。ひとりで雑誌をつくっている限り厳密な納期があるわけではないから、極論、いくら延ばすのも自由です。でもひとりだからこそ雑誌を発行することの責任をちゃんと引き受けることに意識的であるべきだし、私の場合は、「私がまだ出せる準備ができていないので発行を延ばしたいです」って書き手ひとりずつに正直に伝えることに意味があったんだと思います。私はひとり編集長なので、私のエゴイズムで書き手に依頼をしているという事実からは離れられません。でもそれを認めるからこそ作れる率直な関係があるようにも思います。エゴであることを認めたら、書き手との関わり方も変化した気がします。
no.4での変化を経て、次はどんな人とどういうものをつくろうと考えていますか?
no.4までは、私とどこか通じる感覚や違和感、経験を持っている広義の意味での「仲間」とつくった雑誌だったと思うんですね。でも次号はそんな共通性や、共感以外の線で書き手同士を結ぶような号を作りたいと思っていて。「同じ」であること以外で繋がることは困難なことでもあるのですが、それを逃げずにやりたいです。
逃げたくなりますかね?
正直ちょっと怖いですね……。生きていくなかで言いたいことを言うことは難しいんですよね。でもそれは自分を信頼出来ていないとことの表れであると同時に、相手を信頼出来ていないということでもあると思うんです。自分も他人も信頼するって人生の一大テーマだし、それが完全にできるようになるのを待っていたら雑誌なんてずっとつくれない。だから「本当に言いたいことを言う」という、人に迷惑をかける営みを雑誌という媒体を通してちゃんとやりたいと思っています。雑誌をつくることは、私がつくりたいものに人を巻き込むことで、他人にきちんと迷惑をかける覚悟をする修行なんですよね。
それはひとりであるけれども、他人との関わりという目的のためのひとりだから、ある意味ひとりではないようにも感じます。ひとりってなんなんでしょうね……。
なんなんでしょうね……。ビジネスだったら組織が必要なんでしょうけど。やりたいようにやって、自分の意思を引き受けながら、他人にちゃんと迷惑をかける。もしも今ひとりでZINEをつくったりひとりでネットに文章を書いたりしている人が、人と関わりたい、人との関わり方を変えたいと思っているなら、ひとりで誰かと雑誌をつくることはかなり面白いトレーニングになるよって言いたいです。雑誌は極論、つくってもつくらなくても身体的には死なないので、葛藤の現場としてみんな雑誌をつくってみたらいいのにな、と思います。