かつての恩師が目指し続ける、「自分」を作る教育。「勉強とは、自ら『文化資本』を構築すること」

かつての恩師が目指し続ける、「自分」を作る教育。「勉強とは、自ら『文化資本』を構築すること」

かつての恩師が目指し続ける、「自分」を作る教育。「勉強とは、自ら『文化資本』を構築すること」

あなたには記憶に残っている先生はいますか?
その方に、どんなことを教わったでしょうか。

 

「『勉強』とは何か」を考える際、自分がかつて「勉強」を教わった相手が誰で、何を教わったのかを振り返ることが、ひとつの入り口となるのではないかと思います。

 

筆者には、とてもお世話になった先生がいます。名前は、小路口真理美(しょうじぐちまりみ)先生。当時は広島県呉市の高校の国語教員で、その後校長に就任。定年後の現在は、大阪教育大学で特任准教授として国語教育について教えています。

 

高校時代に彼女と出会ったおかけで、今の私があると言っても過言ではありません。今回はそんな私の“恩師”に「今の時代において『勉強』はどんな意味を持つのか」という内容でお話をうかがいます。


高校時代、家計にゆとりがなく塾に行くことができなかった私は、学校の授業と自習で受験対策を行っていました。とは言えそれだけでは不安だなと思っていたら、放課後に小路口先生が小論文の対策を行ってくれるとのこと。私はそこに通い続け、何本も小論文を添削してもらいました。

 

小論文には、型があります。それさえ覚えてしまえば、あとは自由に書いていい。先生には初めにそんなことを教わり、2本目3本目と進むうちにどんどん書くのが楽しくなりました。

 

無事大学に合格した卒業間際、先生に将来の夢を聞かれます。私は「本が好きだから司書になりたい」と答えました。すると先生はこう言いました。

 

「あなたの書く文章はおもしろい。将来は書く仕事につきなさい。人と会って、話をして、ものを書く仕事に」

 

もともと文章を書くのは好きでしたが、そんなふうに背中を押されるのは初めてで、とても嬉しかったのを覚えています。そのときから「書く仕事につこう」と思い始めました。そして今、私は「書く仕事」についている。だから先生は、私の恩師なのです。

 

そんな小路口先生に、ぜひうかがいたいと思っていたことがあります。それは「『勉強』を教えるとは、どういうことでしょうか?」ということ。先生が教育現場で培ったきたこと、そして今大事にしていることとは何なのか。それらを元生徒である私がうかがうことで、「勉強」とは何かということが実感をともなって浮かび上がってくるのではないかと考えました。

 

これは、17年ぶりに会った恩師に「勉強」についてうかがったインタビューです。

小路口真理美

大阪教育大学特任准教授。教員養成課程、国語教育部門所属。研究分野は、中国哲学・漢文教育。漢文教材を訓詁考証学・書誌学等の古典学を踏まえた上で、歴史主義の視点を考慮しながら、哲学資源として捉え直し、その学修に最も適した「会読」を子どものための哲学(p4c)の手法に照らし、アクティブラーニングとしての再構築を目指している。この漢文教育モデルについて、高校現場・教育委員会と連携して、モデルの有効性・可能性を検証し、汎用性あるものとなるよう努めている。2015年4月から 2019年3月までは、広島県立呉三津田高校(くれみつたこうこう)の校長を務めた。

偏差値重視から、ひとりひとりが「自分」を作る教育へ

──

私が高校に通っていた頃は国語を教えていらっしゃいましたが、その後校長を務められていたそうですね。

小路口真理美(以下、小路口)

そう、呉三津田高校(筆者の母校)では初めての女性校長でした。それもあって、私の代でダメにしたらおおごとだと思っていたんですよ。でもその頃は高校の経営が低迷していて、定員割れがひどくなっていてね。

──

えっ、そうだったんですか。

小路口

かと言ってその頃まで、進学がどうだの、国立大に入ったのが何人だのという価値観一本でやってきていたから、何か特色があるわけでもないでしょう。そんなの、ある程度伝統があって進学率が同じなら、どこの高校でも一緒ですから。だからその価値観一本でいくのは脆弱だなぁと感じていたんです。

──

確かに、進学校だってこと以外そんなに特徴なかったですもんね……。

小路口

そんなときに考え方を変えるきっかけになったのが、創立110周年記念の本『無限の扉Ⅱ』だったんですよ。私が教員だったとき、100周年で『無限の扉』を作ったんだけど、110周年のときにはもう時代が変わったなと感じました。

──

時代が変わった?

小路口

つまり、以前はキャリアモデルがあったんです。「呉三津田高校を出た人が、今こんな職業に就いていますよ」という、職業による編集でよかった。だけど110周年のときには、その編集はできないと感じたんです。

──

えっ、それはなぜですか?

小路口

世の中の情報化がものすごく進んで、働き方が大きく変わったからです。もう「こうやったらこうなれるぞ」という図式は成り立たない。つまり、多様化が始まっていたんですね。だから110周年の記念誌では、職業による分類ではなく、寄稿者の生き方から見る4つの特徴による分類を行いました。その4色を、その後の高校のブランドカラーにしたんです。

──

へえー。

小路口

このとき感じたのは、「たくさんの生徒の中からリーダーの資質を持っている子を探して育てたら良い」という時代は終わったなということでした。誰かリーダーがいて、その人についていけばいいという時代は終わった。子どもの数が減っている今、その中でお山の大将を育ててどうするんだと。

 

これからは、確実にひとりひとりを自分の頭で考えられるような子にしないとマズイなと思いましたね。偏差値だけにとらわれていては、絶対うまくいかない。価値を一元化すれば生徒の心が荒むし、全体が細くなって豊かにならない。だって多様性こそが豊かさですからね。

──

偏差値によるピラミッド型の教育ではなく、個々の力をそれぞれ伸ばしていこうと。

小路口

となると、知識を積み重ねてどこかに到達させる、という従来のやり方ではなくなります。もっと日常を大切にして、その中でひとりひとりに「自分」を作らせていかなくてはいけないなと考えました。

──

でも……「自分」を作るって、どういうふうにするんでしょう?

小路口

他者があって、初めて自己がある。つまり、自己を認識するためには、必ず他者の存在が必要です。ということは、「対話」ができないといけない。自分を相対化する力がないと、グローバル社会で対立ばかりしてしまうようになる。

──

なるほど。「対話」で他者を知り「自分」を作っていく。

小路口

そう。でも、そんなに簡単には対話ってできないんですよ。それで広島大学の草原和博教授のご指導を受け、呉三津田高校の先生たちと一緒に、「対話が成立するまでのプロセス」というフローチャートを作ったんです。

「対話」を生み出すための4つのプロセス

──

「対話が成立するまでのプロセス」って、どんなものですか?

小路口

プロセスには全部で4つの分岐点があって、まず第1分岐は「問いを認知する」ということです。つまり、「この問いは取り組む価値がある」と感じること。そこから、自分の意見を言い合うなどの浅いレベルの対話が始まります。

──

はい、はい。

小路口

さらに深いレベルに行くためには、「意見の相違」が必要です。それが第2分岐。でも実はここが難しい。私が教えていて思うのは、生徒は「しゃべり場」はできるんですよ。好きなことなら何でもしゃべるけれど、そこにはエビデンスがない。だから感情的になって対立をしたり、一方で空気を読んで意見を言わないということになってしまう。最悪の場合「みんな違ってみんないい」となって、対話が成立しなくなってしまうんです。

──

なるほど。具体的な論拠がないと感情論になったり、思考停止になってしまうのか……。

小路口

そこで、じゃあこの「意見の相違」を私たち教員が仕組もうと考えたわけです。私の場合は「古典」という教材を使いました。

 

たとえば漢文に『列女傳(れつじょでん)』という作品があるんですが、この中に「我が子を犠牲にして甥を救う」女性の話が出てきます。これを今の感覚で読むと、なぜ我が子を犠牲にしてまで甥を救わねばならないのか理解できなくて、「ひどい話だ」と感じてしまうでしょう? この違和感を、中国哲学の研究者の故木下鉄矢さんは「読みのねじれ」と表現しているんですよ。

──

読みのねじれ。

小路口

「『ねじれ』は読み手である『我々』に検出された『中国』的な発想・感性の特殊性を示している可能性が考えられる」と、彼は言っているんですね。要するに、現代に生きる私たちとの違いがそこにはあるんだってことです。だから、時代考証をせずに一方的に批判してしまうのではなく、「ねじれ」の元となる物語の時代の価値観とはどんなものだったのかを考える必要があるんです。

 

それを議論するために、問いに対する立場の異なる文献を4つ、こちらで用意しました。それを、4つのグループに分かれて別々に読んでもらう。そして、別々の文献を読んだ者同士で、意見を出し合って議論してもらうんです。

──

ああ、別々の文献を読むことで、意見の相違が生まれるんですね。

小路口

そう。これは、東京大学の故三宅なほみ先生が考えた「知識構成型ジグソー法」というものです。意見の相違を、先行研究をもとにこっちが用意してあげる。すると、エビデンスをもって自分の意見を述べ合うレッスンになるんですね。

──

なるほどー。これが分岐2の「意見の相違を認識する」なんですね。先生がそれを仕組むのか。

小路口

そして、次の第3の分岐点が「自分の意見が議論に役立っていると自覚すること」。ここで自己肯定感が持てると、対話はどんどん深くなっていきます。そして最後に「クラスには発言できる安心感がある」という第4の分岐に至るんですよ。

──

おもしろい。最後に安心感が来るんですか。

小路口

まあ、この分岐は順番通りには発生しないんですけどね。だけど学生にこのプロセスを見せたら、みんな「やっぱり心理的安全性が大事なんですね」ってことばかり言うんですよ。でもそうじゃない。クラス経営、ホームルームでなんとかしようとするだけじゃなくて、授業自体で対話を仕組むことが大事なんだよと常々言っているんです。これは私だけが言ってることじゃなくて、この10年教育の現場で言われていることですね。

 

だけど「対話」と言っても単にしゃべらせたらいいというわけではない。しゃべるためには材料がいるから、知識を教えなくちゃいけない。そうなるとやっぱり一斉授業が効率がいいわけです。そこでもっと工夫できないか? と考えたのが、このプロセスなんですね。

「情念が無ければ、思考は価値を失う」

──

なるほど。このプロセスを一貫しているのは「問い」の引きの強さだと思うんですが、「取り組む価値がある」と思わせるのって、特に難しそうですね。

小路口

まず、問いを感知するには違和感がとっかかりになるんだけど、「取り組む価値がある問いを見つけてごらん」っていうのはやっぱり難しいですよね。そこで大事になるのが「当事者意識」です。

──

つまり、自分ごとだと感じさせる?

小路口

そうそう。たとえば「今の時代ってどんな時代なの?」っていうことですね。私は昨年は、徹底的に「コロナ禍」をテーマに教材を作りましたよ。

──

コロナだったら、一人残らず当事者ですものね。

小路口

そう、コロナ禍においては、みんなが当事者で被害を受けていますから。だからテーマとしてはものすごく使えるんです。目に見えない「恐怖」とは何か?とか、「礼と法」から考える「監視社会」と「民度の高まり」の違いとは?とかね。この古典を読んで、今の時代を一緒に考えてみましょう。あなたたち当事者なんだから、と。

 

こんなとき漢文って使えるんですよ。私の師匠は漢文を、普遍性をもって現代の我々に問いかける「哲学資源」と呼んでいましたけどね。『論語』なんか、問いかけに満ちているでしょう。答えは時代によって違うけれど、問いはどの時代でも共通しているんですよ。だから古典が生き残るんです。

──

なるほど、先生はそんなふうに漢文を対話の装置として使っているんですね。それで授業に対話を発生させる。

小路口

そうそう。江戸後期にはこういう勉強の仕方がすでにあったんですよ。素読、講釈、会読というね。「会読」というのは、素読を終えて意味を理解した同程度の学力を持つ者たちが、意見を闘わせる共同学習のこと。でも、今この学び方にならおうとすると、学習者が漢字の意味を調べて、教員の示唆によって典拠に気づいて、理解を深めて……という学習過程がいるんです。

 

だから、最初から楽しいというわけじゃないんですよ。もうわからないしやめたいと思うときだってある。粘り強さが必要なんです。そんな中で「わかった!」というときが来たら大きいですよね。

──

粘り強くあるためには、「問い」の求心力が必要ですよね。それこそ先ほどの当事者性をどう感じさせるか。これは、私も文章を書くときにいつも考えることです。読者にどう「自分ごと」として読んでもらえるか、いかに最後まで読んでもらえるか……。

小路口

そう、私たち教員も、それをどう仕組んでいくかが大事なんですよ。とくに子供ってなんでも興味を持つけれど、すぐそこから離れていくものだからね。

 

立教大学の河野哲也さんは、「Philosophy for children」という子供のための哲学を立ち上げた一人ですが、彼は思考を支えるのは「情念」だとおっしゃっています。「情念が無ければ、思考は価値を失う。強制された思考では対象に何らの情念も持ち得ず、立ち返るべき驚きも経験していない」と。あなただって、問いを立てて文章を書き続けられるのはそういう「情念」があるからでしょう?

──

確かにそうかもしれないです。常に自分ごとの問いをテーマにしていますから。

小路口

私たち教員は、そういう情念をどのように生徒から引き出すか……ということをやらないといけない。その上で、「あ、わかった!」とか「なんかモヤモヤする、もっと……」という経験をどれだけさせてあげられるかなんです。

「勉強」を構成するふたつのパラダイム

小路口

だから教員の立ち位置は、「問題領域(テーマ)の共有者」であるべきなんです。学習者を自分の共鳴者・感染者とするのではなく、自分自身も問いの共有者であること。

──

なるほど。教員が生徒に共鳴させるのではなく、強い問いを中心にみんなが集まるのが理想だという。

小路口

その上で、専門的知識を持っている者として資料を提案したり、ファシリテーターとして見守ることが役割ですね。ここまでが教員のやることであり、「教授パラダイム」と呼ばれている段階です。

──

教授パラダイム?

小路口

「教授パラダイム」とは、教員から学生へ “知識が伝達される” 段階。一方「学習パラダイム」は、学生が中心になって “学習を生み出す” 段階です。そこでは知識は受け取るものではなく、構成・創造・獲得されるものになるんですよ。まあ、時間はかかるけどね。

──

へえー、2段階あるんですね。

小路口

そう。一見「教授パラダイム」と「学習パラダイム」は対立しているように見えるけれど、実は二項対立ではないんですね。「学習パラダイム」にいくには「教授パラダイム」の枠が必要なんです。なぜかと言うと、生徒たちが習得すべき最低限の知識がここで作られるから。一斉授業をして「ここまではわかるね」という枠をつくるんです。

http://smizok.net/education/subpages/a00001(haikei).html(溝上慎一による)
小路口

その枠を超えた先が「学習パラダイム」。枠の外で、生徒たちは個性的な学習成果を作っていきます。教員が設定した枠を超えるためにやるのが、いわゆるアクティブラーニングと呼ばれるものですね。

──

あの……もしかしたら「勉強」って、「教授パラダイム」と「学習パラダイム」両方を包括したものなんでしょうか?

小路口

うん、そう思わないと私はしんどかったですね。知識を教えるだけじゃおもしろくないなと。だって、自分で物を考えられるようにならないと、人生おもしろくないでしょう?

──

たしかに。でも、私はこれまで「勉強」とは「教授パラダイム」のみを指すと思っていました。だから「勉強」がおもしろいかどうかは先生によると思っていましたね……。

小路口

「教授パラダイム」の枠を超えずに、教員が求める答えを探すことだけに一所懸命だったってことですよね。もちろん、答えを見つけるために最低限の知識は教えないといけないのだけど、それを超えたさらに先があるってことを見せたいんです。ドリルはもちろん大事だけど、素振りばかりしていても嫌になるでしょう。だからゲームもさせないといけない。

──

社会はまさにこの「学習パラダイム」ですよね。正解のないところ。学校で習うことが意味がないと感じるのは、この枠の部分で分断されているからなのか。

小路口

だから、教員以外の人が学校に教えに来てくれるという体験は大きいんですよ。学校で習っていたことの枠を超えていけるから、そういうチャンスを作るのも大事。しかもこれを教室でやるというのが重要なんです。柵を越えた羊を見たら、自分もジャンプしてみようかなって思うでしょう?

──

なるほどなぁ。私が先生に小論文を教わっていて、書くことが楽しいと感じられたのは、この「枠を超える」経験をさせてもらえたからかもしれません。小論文の基本的な型を身につけさえすれば、いろんな問いに自分らしく向き合うことができる。その「学習パラダイム」を体験したから、成功体験が先生の言葉とともに、強く記憶に残っているんでしょうね。それこそ人生を変えるほどに。

小路口

まあ、「書く仕事につきなさい」なんて、酷なことをよくも言ったなぁとも思いますけどね(笑)。ものを書く行為って本当に大変ですから。最近卒論を仕上げた学生が「考える苦悩を知った」と言っていました。でもさっきも言ったけど、あなたには情念があるから大丈夫ですよ。

──

「書く」ことって、他者との対話であり自分との対話ですものね……。このふたつのパラダイムを包括した「勉強」って、大人になってからでもできますかね?

小路口

できると思いますよ。そのためのひとつは習慣ですよね。作家が毎日書くように、スポーツ選手が毎日練習するように、勉強する習慣を身につけること。ルーチンの中で生み出されるものって大きいし、なかなか人はそこから抜け出せないですから。

 

でも、ルーチンだけ、素振りだけだとつまらない。時々ゲームしたり、お客さんを来させたりすることですね。たとえば自分が書いたものを誰かに見てもらったり、意見をもらったり。

──

枠の中で学んだり、枠を超えていったりする時間を、自分で設定するのが大事なんですね。

「勉強」とは、文化資本を自ら構築すること

──

先生は、今の時代において「勉強」をする意味ってなんだと思いますか?

小路口

まあ抽象的になるけど、より良く生きるために教養を身につけることじゃないでしょうか。つまり、自分で文化資本を構築すること。

──

文化資本?

小路口

「文化資本」というのは、ブルデューの『ディスタンクシオン』に出てくる言葉です。彼は、行為者が身につけた文化は資本として機能すると考えて、「文化資本」と呼んでいるんですよ。たとえば、本がたくさんある家に生まれ育った子は本好きになりやすい。それは環境によって与えられたもので、これも文化資本です。でも、本がない環境に育ったからこそ渇望して、本を読みたいと自ら求めていく子もいる。

 

それが勉強。つまり「勉強」とは、その文化資本を自分で構築することじゃないかなと思うんです。豊かに生きるために、自ら教養を身につけること。

──

なるほど……ちなみに先生は「教養」ってどういうものだと思われますか。

小路口

いろんな人やことに出会って、いろんなものを見てという機会を通して、身につけるものじゃないでしょうか。本を読んだり、物を書いたり、その中で自分を客観的に見たり、理解者が現れたり……そういうこと全部含めて経験して、いろんな側面から物を見られるようになるということかな。

──

経験を通して、いろんな物の見方ができるようになること?

小路口

そう。それは単に知識をひけらかすことじゃないですよ。もちろん言葉にできたらベストだけど、言葉にできなくてもいいんです。

小路口

例えば私は、定時制の教員をしていたときに、家庭科の先生に編みものを手伝ってと言われて、教わったことがあるんですよ。それで今はもう、何も考えなくてもぬいぐるみが作れるようになったんだけど、その時間は論文を書く合間に無心になるための、私の教養のひとつなんですね。そしてこんなしょうもないぬいぐるみでも、作ると喜んでくれる人がいる。これをきっかけに出会えた人もいるしね。

 

あのとき家庭科の先生が教えてくれなかったら、一生こんなことをするなんてなかったと思いますよ。でもそんなもんだと思う。ちょっとしたものが作れるっていう一面があるおかげで、得られるものも出会える人もいるわけだから。それも教養。机に座って知識を吸収するだけが、勉強じゃないですよね。

──

あみものを教わってなかったら、先生の中の一面が減っていたわけですね

小路口

そういうことです。多面的になること。価値観を一本にしないこと。その分、いろんなものの見方ができるというのは、苦しみもしますよ。でも、「相手はどう思うだろうな」といろんな立場に立てるのが想像力じゃないですか。そういう人が魅力的だと思うし、それが教養ですから。

 

まあ、そういうのはすぐ成果が出るものじゃなく、何年か経って気づいたら身についているものですからね。だから、遠い目をもって勉強できるようになることですね。

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EDITOR

堤 大樹
堤 大樹

26歳で自我が芽生え、ようやく7歳になった。「関西にこんなメディアがあればいいのに〜」でANTENNAをスタート。2021年にPORTLA編集長になる。関係者各位に助けられ、発見と失敗の多い毎日を謳歌中。自身のバンドAmia CalvaではGt/Voを務める。

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岡安 いつ美
岡安 いつ美

昭和最後の大晦日生まれのAB型。大学卒業後に茨城から上洛、京都在住。フォトグラファーをメインに、ライター、編集等アンテナではいろんなことをしています。いつかオースティンに住みたい。

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