「アイデンティティがない」。
こんな表現を、どこかで見たことありませんか。
今回のテーマは「アイデンティティ」です。
どういうときに使うか
自分らしさがどこにあるのかわからなくなり、他人と比べてしまうことは誰しもある。自分らしさとは好きな服、本、食べ物で表現されるものなのだろうか。過去の思い出を掘り起こして発見するものなのだろうか。あるいは現在新たに生まれるものなのだろうか。
たとえば、サカナクションの「アイデンティティ」の歌詞には、そんな人間の姿が描かれている。このような問いが今になってもまだ分からずにいる自分に対する歯がゆさが、むしろこの曲のサビのカタルシスを生んでいる。
あるいはみうらじゅん原作の映画、『アイデン&ティティ』の主人公だって、「必要とされること」と「自分のやりたいこと」の間で自分のバンドサウンドのアイデンティティを探していた。この問いはもちろんバンドマンだけではなくて、表現者、もっと言えば主体的に生きる人間全員にあてはまるものなのではないだろうか。
思春期の筆者にとってもこの言葉は身近なものだった。周りを見渡せば同じ制服を着た学生ばかりで、このまま大人になって会社に入って家族を持って、という人生のステップがレールのように前途に伸びていて、脇にそれることはつねに失敗を意味していた。社会の価値観にどっぷり浸かることは自分らしさの喪失なのではないか、アイデンティティとは何か、と青春をテーマにした文学や漫画作品は僕らに問いかけていた。
さて実はこの「アイデンティティ」、とても単純な意味なのだ。今回も結論から言ってしまおう。
アイデンティティとは、同一性、すなわち「あるものがそのものであるということ」である。
たとえば、毎度おなじみ「鉛筆」で考えてみよう。目の前のこの鉛筆のアイデンティティとは、「この鉛筆であること」である。今ディスプレイに向かっているこの私のアイデンティティとは、「この私であること」である。
ラテン語の「idem同じ (もの)」に由来するこの語は、「それ自体」という非常にシンプルな意味を持っている。学生証などのカードもこの語から由来していて、本人であることの確認のための、「ID(カード)」と呼ばれている。こうしてアイデンティティが全ての存在にとって当たり前のような「そのものであること」ならば、どうしてアイデンティティがなくなる、という表現ができるのだろうか。
エリクソンのアイデンティティ
この私のアイデンティティとは、「この私であること」だと言った。しかし、自明のように見えてこの説明には少しトリックがある。なぜなら「この私」は「ほかの私」とどう異なるかということを問わずに済ませているからだ。
「この私」はたしかに「この」私である以上その時点で「ほかの」私とは異なるはずだ。(これを「特殊性」という)。だが、「この」という部分以外まったく同じ「別の私」が存在したとすると、「この私」と「別の私」とを区別できるだろうか。
このように比べることで、ひとの「アイデンティティ」は成長過程においてさまざまな状況で揺らぐ。20世紀ドイツの心理学者、エリク・H・エリクソンはこのように考えて、「アイデンティティ」という言葉を使った。
エリクソンによると、とくに学生時代・思春期の人間は「社会関係」においてこのアイデンティティが問われるという。あいつと比べて自分はどんな人間なのだろうか。自分は社会においてどういう意味を持っているのだろうか。こうした問いが生まれるのが思春期だというわけだ。
アイデンティティがなくなる/戻って来る
冒頭で述べたように、平凡な自分にうんざりするという経験は誰しもあるだろう。アイデンティティはこのようにして揺らぎ、時にはなくなったように感じてしまう。
だが最初に確認した通り、この私がこの私であること自体は変わらない。逆に言うと、この私をなくしてしまうことは不可能なのだ。それは誰かほかの私になることができないということでもある。
今ここで生きている私のアイデンティティは揺らぎつつも、いつも私自身に戻って来ると表現することもできるだろう。そのようにしてなくなり / 戻って来るのが、人間のアイデンティティなのだ。
読者の方の中にはもうすぐ年度末を迎え、社会人になるという人いるのではないでしょうか。
新しい環境においても、「この私」を取り換えることはできません。
アイデンティティがなくなったと感じても、たった一人の「この私」というアイデンティティはけっして消えることがないのです。
Illust by たかいし