映画祭と言っても規模は様々、二日ほどで終わる映画祭もあれば、1スクリーンで長々と2週間ほど続くものもある。そういうことを踏まえると10会場で1週間以上続く山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)は日本最大級の映画祭の一つと言えるだろう。だが、そういった同時多発イベントに常に付き添うのが取捨選択の問題だ。それこそいい映画をたくさん見ようとするならば、まるで競馬場であたりの馬を血眼になって見出そうとするおじさんたちのように日々デイリースケジュールや公式カタログと睨み合いを続けなければいけない。スケジュール表に付けられる 「これを見るぞ」という意味の赤丸たち。それらこれから見る映画たちを選ぶ理由は様々だ。
扱っている題材が興味を引くコンペ作品を見るのはもちろんだが、一つのテーマをじっくり絞った特集上映を観るのもいい。だが1度しか上映されない映画もたくさんあるために、残念ながらすべての映画を見ることはできないのだ。もちろん映画祭なので選りすぐりが集められているわけだが、大傑作を見つけるとなるとなかなか難しい。そんな中でやはり選択の基準に大いに参考になるのは監督のネームバリューだ。新人や日本に初めて紹介される作家の作品をないがしろにするつもりなど毛頭ないが、それでも巨匠や過去に素晴らしい作品を作った監督の新作にはやはり一介の映画好きにとってたまらない魅力を放っているのも確かだ。
そういう前提を踏まえるとやはり今回のYIDFFにおける一番のビッグネームはフレデリック・ワイズマンだろう。日本では見事にジャッキー・チェンに話題を持って行かれてしまったが、昨年のアカデミー賞でジャッキーと共にアカデミー名誉賞を受賞した監督だ。御年87歳にして現役のドキュメンタリー監督という時点で驚愕だが、悲しいかな、特集上映や映画祭などを除き40本を超える彼の作品群を御目にかける機会はそう多くない。日本では『パリ・オペラ座のすべて』や『クレイジー・ホース・パリ 夜の宝石たち』、『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』などほんの数本がDVD化されているにとどまり、公開時に物議を呼んだデビュー作『チチカット・フォーリーズ』や名作と名高い山形での受賞作『メイン州ベルファスト』を始めとしたその多くは見たくてもなかなか見る機会のない状態にある。
そんな中ワイズマンの新作『エクス・リブリス−ニューヨーク公共図書館』がYIDFFで本邦初公開された。タイトルの示す通りニューヨークの様々な地域にある公共図書館を描いた200分を超える大作だ。もっともワイズマンの作品で3時間を超えるのは結構当たり前のことであり、もちろん今まで通り徹底して“観察映画”のスタイルを崩すことはない。つまり、ドキュメンタリーと聞いてテレビなどでしかドキュメンタリーを見たことのない多くの人が想像しがちなナレーションやインタビューは一切ない、それどころか、画面に映っている人物が誰なのかを示すようなテロップすらないのだ。実際この『エクス・リブリス−ニューヨーク公共図書館』ではパティ・スミスがジャン・ジュネについて語る講演の様子も収められているのだが、映画内にはそのスピーカーがアメリカを代表するシンガーソングライターであることを示すような説明は一切ない。
さらに偏執的にことごとくカメラ目線の人物は画面内にはいないというワイズマン印も健在だ。一度でも街中などでカメラを回したことがある人ならそれがいかにすごいことかというのがわかるだろう。まるでそこにカメラなど存在しないかのように人々は本やスマホに向かい、スタッフたちは会議や作業を行う。映像は図書館の外、図書館の中、今後の課題を討論するスタッフたち、図書館講堂でのレクチャーや勉強会、児童教室などを写していき、ふっとまた別の地区にある図書館の外へと移動する。カメラは本当にただただこの図書館外から中へ、その奥深くへという移動を繰り返すだけなのだが、それがなぜかたまらなく心地いいのが巨匠たる所以だろう。心地よすぎて会場には寝息が聞こえる時もあったけど……。
ナレーションは多くのドキュメンタリー作品において問題定義や観客の好奇心を刺激するために頻繁に使われる手段であり、観客たちはその声の導くままに従って鑑賞をしていればいいのだが、“観察映画”と呼ばれるこのジャンルにおいては能動的に何を受け取るかを考えなければいけない。この『エクス・リブリス−ニューヨーク公共図書館』においても様々な話題が浮かんでは消えていく。押し寄せる電子書籍の波、古い資料のデジタル化、図書館を休憩所にするホームレスたちを図書館として、公共の場としてどうするべきか。限られた予算の中で仕入れるべきはリクエストの多い有名作か書籍の保存のために研究書か。この映画の中で驚きだったのは世界最大の都市であるNYにおいて約2割の人々がインターネットをしたくてもできない状況にあり、彼らのために図書館がパソコンだけでなくモデムまでも長期間貸し出しを行っているという事実だ。
監督の言葉にもあるが、図書館はただ本を読んだり貸りたりするだけの場所ではもうなくあらゆる多面的な場へと変化している。そこは文化の発展の場所であり、老若男女の学びの場、様々な市民活動や貧民救済プログラムなどなど、観客がどの問題を選ぶかを選ぶと同時に示される多様性を求められ、常に文化の先端であろうとする。ただただ図書館が写っているだけだけど、それを通して今のアメリカが見えてくるし、その多様性や取捨選択の自由こそが民主主義なんじゃないかなんてことも考えられる。傑作でした。
ちなみに山形では8日(日)にもう一度上映があります。この機会を逃すと次に見れるのは一体いつになるやらですよ。