山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)では基本朝の10時くらいから始まる最初の上映を観て、会場を行き来しながら3,4本の映画やシンポジウム、監督のトークセッションなどで時間を過ごし、気づけば夜の21時くらいになっている。それを有意義な時間の過ごし方と思うかどうかは人それぞれだが、この1日を約1週間繰り返すのがこの十年、5回にわたってYIDFFを訪れている自分の過ごし方だ。今まではフリーパスを首から下げてお気楽に会場を回っていたのだが、今回は少し違う。首から下がっているのはおしゃれなデザインをラミネート加工したパスではなく顔写真入りのゲストパスだ。アンテナで記事を書いているからというわけではない。あるドキュメンタリー映画監督に関する舞台に出演するためだ。この話をするには時間を遡る必要がある。かなり個人的な話になるが……。
1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で『阿賀に生きる』という映画が優秀賞を受賞した。ざっくりとした言い方をすれば新潟水俣病を扱ったこの映画だが、声高に深刻な公害被害を訴えかけるような作品ではない。新潟県阿賀野川の川筋に3年間スタッフ一同で住み込み、地元の人たちと交流を深めながら田んぼを守り続ける老夫婦や船大工といったその地に暮らす人々の暮らしを暖かくユーモラスに淡々と映し出した作品だ。つまり、そこの人々がいかに阿賀野川と密接に暮らしているのかという姿を同じ視線で見つめることにより、その川にに工業廃液を流すという行為がいかに酷いことかというのを浮き彫りにした作品である。この映画は映画際で受賞しただけでなく当時ドキュメンタリー映画として異例の大ヒットとなった。これが監督デビューとなったその人の名は佐藤真。
そこから約十年、ところかわって京都、初恋や部活といった煌びやかな青春をかなぐり捨て、来る日も来る日も映画を見て過ごしていた若者、川端安里人(つまり自分ですが)は京都造形芸術大学に入学し、そこで教鞭をとっていた佐藤真監督と出会うことになる。18歳という歳の割に異常なまでに映画を鑑賞していたからか、それとも興味本位で様々なドキュメンタリー映画などに関する質問をしてきたからか、今となってはもはや理由はわからないし、自分でこんなことを言うのは気がひけるが、二人は非常に友好的な教師と生徒の関係になった。だが突然事件は起こった。多くは書かないが、2007年突然起こった佐藤真監督の死。川端安里人とその同期生たちはゼミや撮影現場などでのシビアな佐藤監督の姿を見る機会を、よりディープなドキュメンタリー映画の世界に関する質問をする機会を永遠に失った。
その年の山形国際ドキュメンタリー映画祭、そこでは佐藤真監督の追悼会が開かれ、川端安里人は戸惑いながらも大学代表としてほんのすこし話す機会を得た。友人の一人が撮っていたビデオ日記、そこには生徒たちとはしゃぐ佐藤真監督が映っており、その動画を上映するためだった。山形の街を闊歩するペドロ・コスタや王兵(ワン・ビン)といったドキュメンタリーの今後をになう天才たち、映画雑誌や書籍の、ミニシアターにあるスクリーンの向こう側にいた人たちが目の前にいるという環境に、人生初の国際映画祭に興奮と感動を覚えた。しかしそこに引率としているはずだった佐藤監督はもういない。これは生徒が教師を失ったというだけの話ではなく、日本ドキュメンタリー映画会がこれからを担う代表を失ったことも意味していた。
奇妙なことに、フィルモグラフィーを振り返ると晩年の佐藤監督は写真家 牛腸茂雄を扱った傑作『SELF AND OTHERS』や10年後の阿賀を描いた実験的な『阿賀の記憶』、遺作となった『エドワード・サイード OUT OF PLACE』など“不在”、つまり“もういない人”を描いた作品が非常に多いということを追記しておこう。
そこからまた約10年経った2015年、相も変わらず映画漬けの日々を送る川端安里人に京都を拠点に活動する新進気鋭の舞台演出家、村川拓也さんから舞台に出て欲しいとオファーが舞い込む。「俳優でもダンサーでもない自分がどうして?」話を伺うと村川さん自身も佐藤監督の教え子であり、監督の記憶と不在を描いた舞台を作りたいので出演して欲しいとのことだ。どうやらやYIDFFでの追悼会の様子などを誰かから聞いたらしい。出演するべきかどうか迷ったものの、最終的に出演することにした。『エヴェレットゴーストラインズ Ver.B「顔」』という名のその舞台は壇上で様々な佐藤監督の関係者たちが村川さんからのインタビューを受け、主に佐藤監督との思い出やその死の受け止め方について話しをするという内容で、どうやら重要な役どころらしい。記憶を語るドキュメンタリー舞台という極めて異質な内容なので役というのは語弊があるかもしれないが。
やっと今回の山形国際映画祭に話しを戻すことができるのだが、「あれから10年;今、佐藤真が拓く未来」というレトロスペクティブが佐藤監督の作品で編集を手掛けた秦 岳志氏の企画によって行われることとなり、そこでその舞台の再演をするという話の運びになったわけだ。はなから映画祭には行くつもりでいたし、いわゆる物語的にも伏線を張り回収するという役どころなわけなので当然参加することに。映画祭期間中に稽古などで1,2日映画を観れない日が出てきても構わない。もし佐藤先生がいなければ隔年こうしてドキュメンタリー漬けの素晴らしい日々を送ることはなかったかもしれないと思うと、今できるほんの少しだが精一杯の恩返しだ。
出演者という立場上稽古がどのように行われたかなどを細かく書くことはできないし、客観的にこの舞台を語ることもできない。ただ言えることはキャストをほぼ入れ替えたこの舞台ではまた素晴らしい人たちを知り合うことができたし、それこそ10年ぶりくらいにお会いする人たちとの再会もでき盛況ののちにその幕を閉じることができたということと、10年越しでやっと佐藤先生と一緒に山形に来れた気分になったということだ。
そして、会場の隣にある本屋さんでは佐藤監督のコーナーも組まれており、そこには自分が持っている旧版とは違う新装版の著作やDVDが置かれ、人々が手にとっていた。確かに佐藤監督の死は日本のドキュメンタリーだけでなく映画界における大きな損失ではあるが、彼の残した遺産は今なお生き続け、人々にドキュメンタリーの幅広い可能性を示している。