どういうときに使うか
うちの部屋にはとても大きな窓がついていて、ちょうどこれを書いている作業机はすぐそばにある。眺めがいいのはたしかだが、今日はだめだ。なぜなら、春ののどかな天気が窓の外に広がっていて、本コラムを書くのが面倒になってしまうからだ。書きたくない書きたくない。こんな日に朝からずっと椅子にもたれて何かないかと思案をめぐらせているなんて。道行く人は自転車に乗ったり、ランニングをしたり、犬を散歩させたりしながら、めいめいの仕方で5月の空気を楽しんでいるというのに。
そんな折、ふと目にとまったブログ記事で、「酒を飲んだら銭湯へ行くのが億劫だ」とあった。外へ出たい筆者の面倒と、外へ出たくないブログ著者の面倒が急に噛み合った気がした。わかるわかると頷きながらもふと、億劫という言葉の響きがひっかかった。おっくう、と口に出して言うことは日常でほぼない。リズム感のある言葉だが字面から意味がとりづらい。
もちろんご存知のとおり、この言葉はすでに述べたとおりの「面倒」「気が進まない」という意味だ。だが億の劫とはこれいかに、語源が気になってきた。ということで今回のテーマは「億劫」。以前、「退屈」について書いたことがあったが、書きたい内容を考えると相変わらずあまりポジティブなものは出てこないな。
非常に長い長い時間
「億劫」はもともと「おっこう」と読み、「劫」すなわち「長い時間単位」のそのまた1億倍を意味していた。そもそも劫が古代インドにおいて最長の時間単位だったそうだから、この時間はすさまじい。たとえ現代のように「世紀」が最長の単位だったとしても、その億倍はかなり長い。いや、長いというどころの騒ぎではない。われわれの太陽の寿命ですら100億年だとされているのだから。
ピンと来た方もおられるだろうが、この語はじつは仏教用語だった。人智をはるかに超えた時間の流れを考えることで人間の小ささや命のはかなさを考えたのだ。以前「5億年ボタン」というSF小話がはやったことがあった。100万円もらって、時空のはざまで「5億年何もない場所で過ごす」というバイトがあったとすると、挑戦してみるかどうかという話である。ボタンを押せば時空のはざまへ瞬時に移動。5億年が経過した段階で、ボタンを押したその場所その時間に戻ってこれるし、その間の記憶は消されるので体感時間は実質ゼロ。ボタンを押すだけで100万円もらえるなんてお手軽なバイトだ、と主人公はボタンを押してしまうが……、という話である。お察しの通りの展開が彼に待っているのだが、それは想像するだに恐怖の体験である。
途方もないスケールの崇高さ
さて、カントという哲学者が「崇高」について考えたことがあった。崇高とは、「途方もなさ」であると彼はいう。星空の遠さや海の広さ、時間の流れの途方もなさを考えると自分の想像力(構想力)がいかにちっぽけなものかが思い知らされる。5億年スイッチを想像してぐったりするのと同じだ。だが、カントは理性によってそれを考えることができることに希望を見出す。つまり、この「崇高」によって自分の限界を突破することができるのではないかと考えたのだ。
途方もないスケールの感覚によって、自分の仕事や人生観が影響を受けたりしたことは誰にでもあるだろう。忙しい日々を送っている社会人が、ふと海を眺めて安心感を得たり、自分をふりかえってみたりする。大きな地震災害が起きたあとで、永遠のように考えていた人生の時間が有限であったとふと実感する。宇宙開発や未知の星々に思いをはせ、好奇心が刺激される。こうして、自分がすでに持っていたスケールがばらばらに自己解体してしまうことにこそ、「崇高」の本質がある。
面倒と言わずに
さて、億劫という言葉が長い長い崇高な時間を表していたとしても、今の主な用法は「面倒」だ。崇高な時間を考えて、めんどくせえ、と言った先人たちの人間味に感服する。ただ、カントをヒントにして、そんなスケールの大きい面倒の中に、自分の価値観をぬりかえるような体験が埋まっているかもしれないと考えることもできるのではないか。
面倒と言わず、大きなスケールで新しいことに挑戦してみよう。5月は夏の葉が生い茂る、成長の季節なのだから。