井尻珈琲焙煎所

井尻珈琲焙煎所

井尻珈琲焙煎所

最後に飲んだ珈琲の味を思い出せる人って、どれくらいいるのだろうか。〈井尻珈琲焙煎所〉の店主、井尻健一郎さんは、味を覚えていなくても「前にここで飲んだ珈琲が心地よかったな」と思い出してくれればいいと話す。自家焙煎のお店でありながら、珈琲の味を覚えていなくてもいいと言い切る潔さ。その理由を探るべく、井尻さんのルーツやお店のあり方についてお話を伺うと、お客さんに心からゆったり過ごしてもらいたいというシンプルな思いがあった。

 

〈井尻珈琲焙煎所〉が店を構えるのは、大阪はJR大正駅前の大通りから一本入った場所。焙煎機を備えた小さなお店には、駅前とは思えないほど落ち着いた時間が流れる。磨き上げられたテーブルやカップ、レコードから流れる音楽、控えめに飾られた生花やスワッグ。ほの暗い店内で深煎り珈琲を飲んでいると、緊張の糸がほどけて呼吸が深くなるような、ゆったりとした気分になる。隅々まで気が配られた空間にも、井尻さんの“珈琲屋”に対する揺るぎない姿勢が表れている。

住所

〒551-0002
大阪府大阪市大正区三軒家東1-4-11

営業時間

11:00-19:00

定休日

不定休

TEL

06-7503-5782

珈琲を淹れて、音楽をかける。この店はまるで自分の家のような場所

──

まず珈琲を好きになったきっかけからお伺いできればと思います。

井尻

もともと音楽が好きで、家で音楽を聴く時に、美味しい珈琲を飲みたいなあと思っていて、せっかくだから自分で淹れてみようと思ったのが最初ですね。それが20代前半かな。

──

当時から焙煎もされていたんですか?

井尻

最初は色々なお店で珈琲豆を買って淹れてたんですけど、段々買うのが面倒くさくなってきて。焙煎の方法を調べてみたら、銀杏を炒るような網があれば家でもできそうだったんで、「それなら何度も豆を買いに行かんでええなあ」と思って始めました。でも、僕は当時、サラリーマンだったので家に居る時間も限られてるし、一日に何杯も飲まないんですよ。焙煎した豆がなかなか減らないから、周りの人にあげてたんです。そのうち人伝いに全然知らない人から珈琲豆を買いたいって連絡がくるようになって。

──

そこから販売が始まったんですね。

井尻

もともとは売るつもりもなくて断ってたんですけどね。「何とかならへん?」って言われて、ゆるく販売が始まって。イベント出店も同じような感じでスタートしました。スピーカーを持って行って音楽をかけたり、今と似たようなことをしてましたね。それで色んな人に呼ばれるようになりました。

──

イベントに出店される前から、ずっとサラリーマンを続けられていたんですか?

井尻

26歳くらいまでは海外を旅したりふらふらしてたんです。でも段々周りも「こいついつ働くんかな」ってなってくる。それなら、サラリーマンを一度経験してみるのもいいかなと思って、製造業の会社に就職しました。特に夢もやりたいこともなかったから、期間は3年じゃ短いと思って、10年やったらやめるって決めてましたね。

──

ちょうど10年経った時に開業されたんですか?

井尻

そうですね。辞表を出したタイミングでこの物件を紹介してもらいました。不動産のお客さんが、もともと喫茶店だった物件を教えてくれて。ボロボロだった店内をイベントで知り合った大工さんに直してもらって、内装デザインも友達にやってもらって、2016年4月末にオープンしました。

──

オープン当時と今で何か変わったことはありますか?

井尻

それがあんまりなくて。イベント出店の時にすでにある程度お客さんがついていたので、有難い事にスタイル的には変わらず続けている感じです。CD棚や本棚も最初からずっと置いてますね。店が家みたいなもんなんですよ。珈琲淹れて音楽かけて本読むっていう、普段自分が家でやってることを、ここに持ってきてるだけなんです。レコードをかけるのも前からだし。お客さんの雰囲気やお店の状況で、ジャズをメインに、ブルースやソウル、アンビエントミュージック、GRATEFUL DEADなどもかけたりしています。

──

最近ではラッパーのNAGAN SERVERさんとコラボレーションした楽曲配布も行っていましたよね。

井尻

SERVER君はもともと友達で。珈琲豆を購入していただいたお客さんが家で珈琲飲む時に音楽を聴いてもらえたらと思って、SERVER君に相談したんです。紙に入っているQRコードで音源をダウンロードできるようになっています。デザインはたまにお店の写真を撮ってくれている友達にお願いしました。

──

配信だけではなくて、配布する紙や封筒にもこだわって作られているんですね。

井尻

曲を取り込むこと自体はデジタルなんですけど、データだけだと受け取っても大事に扱ってくれないので、きちんと作品として残してもらえるようにしたくて。封筒は大阪の町工場で素晴らしい技術を持った印刷所さんにお願いしたんです。箔押しで、版も作ってもらって。処方箋のイメージで、粉薬を入れる袋に使ったりするグラシンっていう紙を使いました。「井尻珈琲焙煎所」と「NAGAN SERVER」が交わって、「+(足す)」っていう字になるように印刷しています。

──

別の方ともコラボレーションできそうな、可能性が感じられるデザインですね。

井尻

そうですね。別の音楽の人にお願いしてもいいし、例えば写真だったり、お菓子のレシピだったり、色んな人と一緒にできたらいいなと。だからこのプロジェクトの名前も「無題」にしたんです。あえてテーマは決めずにいることで、色々派生していけたらいいなと思ってますね。

一日の「余白」を作りにいく店

──

お店の雰囲気作りで意識されていることはありますか?

井尻

お客さんが静かに過ごせるようには常に気を配っています。注意することもたまにあって。今は少なくなったけど、オープン当時は自分が珈琲で表現したいことをお客さんに理解してもらうのに苦労しました(笑)。うちはゆっくり過ごしにくる人が多いんです。例えば、一人で本を読もうと思っている人の隣で大きな声でしゃべる人がいたら、本を読んでる人は嫌じゃないですか。しゃべったらいけないわけじゃないけど、声を小さくしてあげたりするのが気遣いだから。当然パソコンもだめだし、4人組以上は基本的にはお断りしています。

──

じゃあ4人掛けの席がすべて埋まるっていうことはないんですね。

井尻

ないですね。基本的には外に並ぶのも禁止にしています。席をいっぱいにはしたくないんですよ。その時の店内の空気感で、席が空いてても断ることもあるし。よくくるおじいちゃんとかが、ぱっときて気軽に珈琲を飲める店でいたいんですよね。

──

ぱっと入れるお店かどうかって大事ですよね。いつも並んでいないお店の方が気軽に入りやすいですし。お客さんは年配の方が多いですか?

井尻

年齢層もお客さんのジャンルも幅広くて、若い子からおじいちゃんおばあちゃんまでいますね。でもそういう人たちが、全員で店内の空気を作っている店だと思います。一人が何か変な行動をするわけでもないですし。まあ、そういう時は僕が注意するんですけどね(笑)。

──

お店の一体感は、お客さんとの関係だけでなく空間そのものからも感じました。お店に入った瞬間から、落ち着いた空気に包まれているような気がして。

井尻

珈琲屋に行く動機って、一日の「余白」を作りにいくためだと思うんです。余計なことを考えずに、静かに過ごす時間というか。だから店内も目に入る情報が少なくなるように意識しています。落ち着くためにきてるのに、情報が多くてごちゃごちゃしてるのは嫌だから。みんな考えすぎなんじゃないですかね。珈琲屋なんてぼーっとしにくるところだし。そもそもパソコンをだめにしているのも、そういう現実的な日常を忘れたらいいんじゃないかなと思ってるから。

──

珈琲屋さんに行くとホッとする反面、混んでくるとずっと席にいるのが申し訳なくなってきて、出た方がいいのかなと思ってしまうことがあります。

井尻

全然いて問題ないですよ。他の店はわからないですけど(笑)。混んでる時とか、むしろそこにいてくれたらいいなくらいの気持ちですね。気を遣って立とうとする人もいるけど、いつも断ってるんですよ。

 

長い人だと開店から閉店までいるお客さんもいますしね。でもその人が一人で本読んだり気持ち良さそうに過ごしてる分にはあんまり気にならない。一日の中で満席になる瞬間って一回や二回くらいだし、別にそこまで損じゃないからほっといてますね(笑)。

 

うちは珈琲が一杯500円で、遊んで暮らせるくらい利益を上げようと思ったら、たぶん腕ちぎれるくらい珈琲淹れないといけないんで(笑)。まだまだ先は長いのでゆるりとやっていきますよ。だから、お客さんはそんなに気にする必要ないんです。その人がここで過ごしたくてきてるんだから、珈琲を飲む時くらい、いたいだけいたらいいんですよ。

──

そう言ってもらえると、安心してお店で過ごすことができます。

井尻

ちょっと真面目な話をすると、物事って「モノ」と「コト」だけど、今は「モノ」の価値ばっかりがフィーチャーされている。でも大事なのは「コト」なんで。「なんで珈琲を飲むのか」っていう理由の方が僕は重要だと思う。珈琲を飲んでゆっくりするために来ている人が、きちんと落ち着いて過ごせる店でありたいんです。

最後の一杯になってもいいように

──

お店で出す珈琲は、いつも同じ種類のものを使っているんですか?

井尻

ブレンドが好きなんで、「一月」「二月」「三月」って月替わりのブレンドを去年からずっと作っています。一か月間、同じブレンドとひたすら向き合うこのやり方が自分の性格には合っているのかなと思います。

──

お店のメニューもシンプルですよね。

井尻

珈琲豆の種類を選べる店もいいけど、僕の店にはそういう選ぶ時間はいらないと思ってるんで。そこでどこの珈琲を飲んだかってそんなに重要かなあと思うんです。グアテマラのなんとか農園の柑橘系でどうとか。そんなの教わっても、たぶん店を出た瞬間に忘れてますよね(笑)。

──

確かにすぐ忘れてしまいます(笑)。

井尻

珈琲屋に立ち寄るのって、やっぱり時間を過ごすのが目的だから。さっき言ったみたいに「余白」を作りにきてるので、こちらから情報をたくさん提供するのは嫌なんです。必要な人は聞いたらいいし。よくくる人は注文すらしないですよ(笑)。扉を開けて、座って、珈琲を淹れて、飲んで、帰る。そういう関係が僕は好きなんです。

──

「珈琲を飲んで過ごす時間」を大切にしているから、できるだけ他の要素を少なくしているんですね。

井尻

僕が他の店に行く時に求めているものがこれくらいなので。他のお店は珈琲以外にも色々メニューがありますよね。もしウチの店で珈琲以外の物を出すならそれを研究しないといけないけど、それなら美味しい珈琲を焼けるようにした方が早いなと今は思います。それに、「美味しい」の定義って人それぞれじゃないですか。僕は当然美味しいと思った珈琲を出してるけど、それを伝えることが重要なわけではないので。それを求めてない人もたくさんいるし。

──

最後に、井尻さんが美味しい珈琲を淹れる上で意識されていることがあれば教えてください。

井尻

お店に一回きてそれっきりの人も当然いっぱいいるし、毎日くる人もたまにしかこない人もいるから、ここで僕が淹れる珈琲が最後の一杯になる可能性がいつだってある。特に年配の方だったら、僕が事故とかで死なないかぎりはその人が先に亡くなる可能性が高い。だから、ウチの店を選んでくれてるんだったら、今日の珈琲が最後の一杯になったとしてもいいようにはしていますね。ここが最後で良かったなと思っていてほしいので。

 

それに、若い子もつまづいたりしんどくなった時に、「前にここで飲んだ珈琲が心地よかったな」って思い出してほしいんです。だからなるべくそういう一杯になるように考えて淹れています。まあ……毎回そんなに重たい思いを乗せてるわけじゃないですけどね(笑)。

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写真・編集

岡安 いつ美
岡安 いつ美

昭和最後の大晦日生まれのAB型。大学卒業後に茨城から上洛、京都在住。フォトグラファーをメインに、ライター、編集等アンテナではいろんなことをしています。いつかオースティンに住みたい。

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