曖昧な“土”を信じ続けるためのロマン。農家・野鍛冶の営みに通底する土着的態度|亀岡探訪誌 #3

曖昧な“土”を信じ続けるためのロマン。農家・野鍛冶の営みに通底する土着的態度|亀岡探訪誌 #3

曖昧な“土”を信じ続けるためのロマン。農家・野鍛冶の営みに通底する土着的態度|亀岡探訪誌 #3

春は、土の多い場所に行くと安心する。毎年、筆者の鼻や耳を刺激してやまない諸々の花粉を土は吸収してくれるらしいと、数年前、何かのニュースで目にしたからだ。症状が和らぐ期待感とともに、日頃いかに私たちが、コンクリートやアスファルトに覆われた地面を歩いているのかを思い知る。

 

考えてみれば、私たちの生活は、舗装されたアスファルトの下に隠れた土に支えられていると言える。農作業を行い、収穫をすることで、人は命をつないできた。土には花粉だけでなく、人間の農の営みや歴史も堆積しているのだ。

 

それは「京都の台所」や「京都の穀倉地」と呼ばれる亀岡なら尚更だろう。


亀岡の農を下支えする、野鍛冶、土、霧

亀岡の農の歴史は長い。

 

亀岡盆地では、縄文時代には生活が営まれており、弥生時代には稲作が発達したと言われる(参考)。奈良時代には広い農地が整備され、都が京都に置かれてからは食料面で都を支えた(参考)。江戸時代以降も、城下町の置かれた亀山をのぞき、亀岡はほぼ全域にわたり農村が広がっていたという(参考)。

 

こうした農の営みを下支えしてきたのが、亀岡の肥沃な土である。古くは湖であったという伝承もあり、水や霧が溜まりやすい地形をしている(参考)。とりわけ晩秋から早春にかけて、亀岡盆地では丹波霧と呼ばれる深い霧が発生し、水と霧をたっぷり含んだ土壌をつくる。その自然の水やりは、水を要する大豆の栽培に適していた。大納言小豆など、亀岡産の質の高い大豆は、丹波霧の名前とともに広く知れ渡っている。

また、その土を耕す道具も欠かせない。とりわけ亀岡では農具をつくる職人の活動が盛んだった。日本では15世紀ごろ、刀鍛冶から分化・独立し、野鍛冶と呼ばれる職業が生まれた。なかなか聞き慣れないかもしれない。野鍛冶とは、その土地に暮らす農民のためにその場にある鉄釘などの素材を加工する。そうして鍛冶技術を駆使し、鍬や鋤などの農具をはじめ、暮らしの道具をつくる野良の鍛冶職人のこと。亀岡では1675年には刀鍛冶も含め、亀山城下町には14名の鍛冶職人が営業していたことが記録されている(参考)。農が盛んな亀岡には欠かせないなりわいだった。

 

舗装されて見えなかったとしても、亀岡の土は、この地の農の営みに多大な影響を与え、暮らしと深くつながっている。そのつながりを肌で実感できているのは、日々土に触れ、土と向き合う、農の担い手たちではないだろうか。

 

担い手が減少しつつある中、真摯に土に向き合う農家である中嶋大輔さん、そして農に欠かせない農具を手がける野鍛冶・堀田典男さんといった二名の身体感覚から、土着の営みへの向き合い方を照らしてみたい。

ケアの姿勢を持ち、土の声に耳を傾けつづける「土着的態度」

「この一本、道を挟んだら、もう土が変わってしまうんですよ」と、中嶋さんはすぐ隣の畑を指差しながら話す。

 

ハイツ野菜研究部の中嶋大輔さんは、亀岡市旭町に住む農の担い手だ。旅行会社の営業職、レコード屋のスタッフと経営者を経て、30代の半ばに農家へ転身した。

 

中嶋さんは、主に無施肥・無農薬栽培で野菜を育てている。無施肥とは、農薬や有機肥料、堆肥を使わず、土の持つ本来の力を引き出しながら栽培する農法だ。作物の栄養補給や土壌の改善、病気や害虫への対処など、農薬や肥料に頼らず行う必要があるため、その難易度は高い。

「肥えを入れへん分、どうやって動かすかがテーマなんです」と語る中嶋さんの畑では、一つひとつの畑ごと、一列ごと、作物ごとに、さまざまな実験が行われている。

 

たとえば、作物同士の間隔(株間)を調整し、一つの作物の大きさや育ち具合を見る。「マルチ」と呼ばれる、土の保温や保湿を行うシートの色や材質を細かく変え、作物ごとに温度や湿度を調整する。しっかりと根を張った植物の枝を、これから伸ばしたい野菜の枝に接木をし、根から吸った栄養が行き渡らせる、など。

 

その営みは想像していた以上に、動的かつ複雑なものだった。

無施肥をやってみて思うのは、土や野菜に、どれだけこちらが合わせにいくかに尽きるということ。ちょうど今育てているニンニクも、2列で植えるか、3列で植えるか、下の根っこが喧嘩せえへん幅を模索してるんです。2列のほうが確実性が高いのはわかっているんだけど、効率性との兼ね合いをみています。4列でも5列でも、肥料があれば動かせるんだけど、無施肥ではそうはいかないから。手探り。やってみて出た答えが、一番正確なんですよね。

一律な方法で管理するのではなく、その土や野菜に合わせて環境を構築し、対処する。土や野菜に「沿うこと」を大切にする中嶋さんのあり方から連想されたのは「ケア」という言葉だった。

 

中島岳志さんの『思いがけず利他』では、沖縄の料理店における認知症患者への「ケア」のあり方が紹介されている。そのお店では、認知症と診断された4人の高齢者が、スタッフとして働いている。物忘れなど小さなミスはあれど、各々が得意な業務領域で活躍し、厨房担当兼経営者も、あえて最低限のサポートしかしない。「当事者が持っているポテンシャル(潜在能力)を引き出す。その人の特質やあり方に『沿う』ことで、『介護しない介護』が成立する場所」を作ろうとしている。

中嶋さんは、徹底的に「沿う」ために、自身を柔軟に変えていく。

 

僕が曲がった方がいいんですよ。土を曲げるより」と語る通り、土や野菜の声を聞いてみた結果、必要に応じて最低限の施肥を行うこともあるという。

たとえば、ほうれん草は、無施肥でも作れなくはないんですけど、サイズも相当小さくなってしまうし、収穫量も限られてしまう。市場に出せるサイズを一定量作るには、石灰を入れないと厳しい。そう判断して、有機でつくっています。

 

だから、僕は無施肥に固執するつもりもないし、肥えや農薬を入れている人に対して、否定的な気持ちもないんです。実際、大規模な農場を管理しようと思ったら、農薬を使って、収穫を安定させることがとても大事になる。収穫が安定しないからと、耕作放棄されてしまうほうが、地域にとってはよっぽどネガティブな影響が大きいわけです。

 

農業って、自分の畑の土だけを見つめてれば、成立するものでもないんですよね。地域全体にとってどうかという視点も必要になるので、そのバランスは意識しています

徹底的に土や野菜を見つめるケアの眼、市場の求める質・量に達するかを冷静にジャッジする眼、畑のある地域全体のシステムを捉える俯瞰の眼が、中嶋さんの中に同居していることに驚かされる。

 

安易に「無施肥・無農薬がいい」と決めつけることは決してせずに、複数の視点や立場を行き来しながら、目の前の土や野菜の多様な声を聞く。

 

その姿勢に感銘を受けると同時に、筆者が持っていた亀岡の農に対する“決めつけ”のようなものを恥じる。「亀岡は霧と水を含むから野菜がよく育つ」。それは間違いではない一方、概要にすぎないからだ。中嶋さんは「この道を挟んだ向こう側の畑、その畑の土は、こう語る」という解像度で土と向き合っていた。そのミクロな解像度とともに、市場や地域のマクロなシステムを捉え、最適解を模索しつづける。そこで培われるのが土着的態度であり、地に足がついているということではないだろうか。

人と自然を取り持つ、野鍛冶が手がける 唯一無二の道具たち

地面にどっしり腰を下ろし、焦茶色の手で、火に炭を焚べる。ここにも、中嶋さんと同じく土着の知恵をもって、農の営みを支える人がいる。

火の具合を見ながら会話するんです。そしたら火が答えてくれるから。火の色や煙をみて、消えないように炭や木を足したり、空気を送ってみたり…ほら、揺らぎが大きくなったでしょ。

亀岡で野鍛冶職人として活動する堀田典男さんの工房。陽の光の入る窓は、木でできた戸で閉ざされ、薄暗い。「普段は真っ暗ですよ、火の色を見ないとあかんから」

堀田さんは、生物学や機械工学の研究を経て、家業の機械鍛冶屋を継いだ。本腰を入れて鍛冶屋を継ぐタイミングで、亀岡市の野鍛冶職人である片井操​​さんの映像に強く惹かれ、同氏のもとで修行を重ねた。

これから焼きを入れていきます。

「喝を入れる」という意味ではなく、「鉄を硬くする」という意味で、堀田さんが口にするのを聞き、ハッとする。「焼きを入れる」は、もともと鍛冶職人が刀に火を入れて、硬くする作業に由来する表現だ。この他にも「鉄を熱いうちは打て」もそうだし、「とんちんかん」は、親方と弟子が交互に「トンテンカン」と音を鳴らして鉄を打つ際、弟子が間違えると「チン」と鳴ってしまうことに由来する。それほど鍛冶屋は、人々にとって身近な存在だった。

 

亀岡市では、冒頭に述べた通り、城下町で多数の鍛冶職人が営業していたと言われており、かつ時代を下って第二次世界大戦後も、京都府亀岡野鍛冶組合が組織され、およそ17軒の野鍛冶が所属。各村には必ず1軒は鍛冶屋があったという。(参考

 

堀田さん曰く、野鍛冶は村の野原で穴を堀り、土を固め、木や炭を入れて火を起こし、そこを作業場とすることもあったらしい。さらに用いる道具や手法についても、伝統的に受け継がれてきた名称が不明なことも多い。「その場をその場を生きている人たちだから、形式ばったことがない」のだ。己の知恵と技術を駆使して、その場にあるもので道具をつくり、庶民の生活を支える。まさに野鍛冶は“ストリート”を生きる鍛冶職人なのだ。

 

また、亀岡の野鍛冶は、農具の製作・修理を手がけるほか、筏に用いられる「カン」と呼ばれる金具も手がけていた(参考)。亀岡の保津川では、丹波山地の材木や様々な物資を、京都へと運ぶ筏流しが盛んだった。野鍛冶は農の営みを支えるのはもちろん、亀岡にとって重要な物流インフラをも支える存在だった。

 

そんな野鍛冶のつくった道具を使うのは、中嶋さんのように、自然と向き合う生業の人々だ。野鍛冶は、土や野菜などの自然と、人間のつながりを取り持つ役割を担ってきた。

農具は使う人の体型とか、土の質とか、農のやり方に合わせてつくります。たとえば、雑草の多い土であれば切れ味の鋭い鋤を。石が多い土は、石に当たってしまうから、あえて焼きを強くしない。あとは使い手の利き手や身長も加味するので、すべて一品もの。

 

だから、野鍛冶は使い手を見なきゃいけないし、畑や土質についても知らないといけない。そういう細かい部分も気づけたのは、生活圏で一緒に暮らしてたからなんやろうね。

ままならなさを受け入れる、農をめぐるロマンと信仰

農の担い手一人ひとりや、その人が耕す土に徹底的に合わせる堀田さん。その営みには、中嶋さんの野菜や土との向き合い方と同様、対象へのきめ細やかな解像度、それに徹底的に「沿う」姿勢が貫かれている。

 

現代において、そうした姿勢をもって、野鍛冶として活動し続けることは、決して容易ではないと言う。一時は、村に一人いた野鍛冶の数は、農業の機械化とともに減少。堀田さん曰く亀岡でも「影も形もない状態」だった。

 

その中で、2009年に保津川の筏流しを再現する『保津川筏復活プロジェクト』が立ち上がり、堀田さんの師匠である片井さんがカンの発注を受けた。久々のカン製作。それを機に、野鍛冶としての活動を復活させた。2010年には片井氏を中心に、学生と民間の有志が鍛冶屋倶楽部が立ち上がり、文化継承のために活動した。

 

『保津川筏復活プロジェクト』を機に復活の兆しをみせた野鍛冶だったが、その後、2016年に片井さんが亡くなり、鍛冶屋倶楽部も活動を終了した。継承していくのは容易ではないのだ。

時間的コストを考えると、農具じゃなくて、機械に頼るのも、仕方ない。でも、手作業も忘れてはいけないと思います。

 

たとえば昔は、河川の工事も(岸が)崩れたら人間が石を持ってきて、組んでたわけね。そうすると、人間が手で積むから、工事のスピードもゆっくりしてて、その川に暮らす生き物は必要であれば逃げたり、戻ってきたりできたわけ。

 

でも、今はバーっと機械で土を崩してしまうから、逃げる時間もない。そうやって生きていく場所がなくなって、生態系が崩れているって、僕は解釈しています。

 

人間も生態系の一員であれば、そのスピードに合わせた方がいい。ちょうどいいのは、人間が歩くスピードやね。人間が道を覚えたいとき、車とオートバイと自転車と徒歩があって、一番いいのは歩くスピードじゃない。僕はそれを生態学的スピードって呼んでいます。

人類学者のティム・インゴルドは、移動のあり方を「徒歩旅行」と「輸送」に分類している。おおまかにいうと、前者は、目的地を常に変化させながら、絶えず動いていく移動、後者は、目的地に向かって最短時間で向かう移動を指す。堀田さんのいう「生態学的スピードで歩く」も、前者のように自由でダイナミックな移動を指すのだろう。

 

ふと、自分の日常や仕事の仕方を振り返ると、全ての物事を「輸送」的に進めようとしている。歩くスピード、手作業で可能な量を超えた生産をするために、目的を明確にし、進捗を管理する。

だからこそ、リスクは避けたくなる。中嶋さんが無施肥での栽培について「やってみるまでわからない」と飄々と話す姿にうっすらと憧れる理由も、そのリスクに耐える自信が自分にはないからかもしれない。

リスクがないようにしっかり管理して、農薬や肥えを使うのが悪いと言いたいわけでは、決してないんです。家庭の状況や子供の有無によっては、そういう一定規模の保証されたやり方が必要な場合もあります。

 

でも、僕は大変だったとしても、無施肥でやり続けるんだと思います。野菜と土の話を聞いて、相手の言い分がわかる瞬間。互いに思惑が一致する『接点』が見つかることが楽しいと感じるんです。

 

外からは、『無施肥で野菜が実った』ように見えると思うのですが、その手前に、一年一作を何度もやり直して、話を聞いて、『あぁ、ここかぁ』って見つかっている。僕にとってはそのやり取りにこそ、ロマンがあるんです。

頭では理解できるようで、そのロマンの感覚を掴みきれない自分がもどかしい。野菜や土に耳を傾け、相手を理解しようとする。一生見つからないかもしれない『接点』を見出そうと、自らの手を動かし続ける。それは、ひょっとすると信仰のようなものなのかもしれない。今よりも自然との距離が近かった頃、農の担い手は、中嶋さんと近しい思いを持っていたのではないだろうか。

 

その信仰の名残は、堀田さんの工房にも残されている。蔵の鍵と、稲を刈る鎌を模った“作り物”と呼ばれる置物が、神棚に備えられている。一年に一度、蔵いっぱいのお米の収穫を祈願してつくるものだそうだ。

日々、土や野菜の特質やあり方を細やかに捉え、ケアをしていく土着的態度。それらを携えて、地に足をつけながらも、まだ見ぬロマンを追い求める。亀岡の農の歴史は、そんな担い手たちによって形作られてきた。自動車ではなく徒歩の速さで。その歩みは、目的にとらわれない自由な軌跡を描き続けている。

探訪のガイド

ハイツ野菜研究部・中嶋大輔さん

名前は大層ですが、1人で営む 小規模農家です。 農業は2011年より開始。住まいから離れた亀岡市旭町を拠点として通い農業をしています。住居に近い亀岡市古世では水稲にも挑戦中。現在、全圃場合わせて約90アール。作物と土の相性をみて 自然栽培(全く肥料と農薬を使わない)と呼ばれる栽培に加えて、土壌改良が必要な野菜に関しては石灰と油粕、米糠を使った施肥を行ってます。

野鍛冶・堀田典男さん

大学で森林生態、動物生態を学びそれと機械工学を学ぶ。カワネズミ(食虫類:モグラの仲間)に興味を持ちその生態を追いかけて40年を超える。また、家業である機械鍛冶屋(機械の設計、加工、組み立てをする)に従事、鍛冶屋でもものづくりの原点である野鍛冶(農林水産業の道具を作る鍛冶屋)に興味を持ち修業し直す。現在は哺乳類の生態を追いかけて調べまた、環境教育に力を入れている。それと同時に野鍛冶をして暮らしている。

EDITOR

Deep Care Lab
Deep Care Lab

Deep Care Labは、祖先、未来世代、生き物や神仏といったあらゆるいのちのつながりへの想像力をはぐくみ、ケアの気持ちが立ち上がる創造的な探求と実践を重ねるリサーチ・スタジオです。人類学、未来学、仏教、デザインといった横断的視点を活かし、自治体や企業、アーティストや研究者との協働を通じて、想像力がひろがる「窓」を新たなインフラとして形成します。

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