私たちは川から離れて生きられない。保津川に祈り、生活と文化を築いた先人の生き様を巡る|亀岡探訪誌 #2

私たちは川から離れて生きられない。保津川に祈り、生活と文化を築いた先人の生き様を巡る|亀岡探訪誌 #2

私たちは川から離れて生きられない。保津川に祈り、生活と文化を築いた先人の生き様を巡る|亀岡探訪誌 #2

「川」と聞いて、あなたが思い浮かべるのはどの川だろうか。

 

筆者は京都市に住んでいることから、一番身近なのが鴨川だ。カップルがチルを楽しんだり、家族でピクニックをしたり、人々の娯楽として楽しまれている。また、大雨が降り注いだ時は、氾濫しやすい。台風が接近している朝方に、緊急速報アラートで起こされたことが何度かある。

 

生活に彩りを加えつつ、災害の危険性を孕むちょっと厄介な存在。しかし、それは川の一側面にすぎないのではないだろうか。私たちの暮らしと川は、もっと複雑に関わってきたのではないだろうか。


そんな問いを持ちつつ、第二回の亀岡探訪誌で巡るのは、多くの観光客が集まる「保津川」だ。保津川も鴨川と同様に「娯楽」と「氾濫」の2つの顔を持っている。丹波亀岡から京都の名勝嵐山まで約16㎞の渓流を下る「保津川下り」が有名であり、氾濫が多くて「暴れ川」としても名高い。

 

そしてここからが、あまり知られていない話。昔は大事な輸送手段として保津川が重宝されていたのだ。

 

古代から、丹波山地で切り出された材木を「筏(いかだ)」にして、保津川を活用して京の都へと木材を運ぶようになったといわれる。陸路が発達し、車や電車、飛行機などの移動が当たり前となってしまった現代人にとっては、少し想像しにくいかもしれない。しかし、奈良の平城京建設においても、保津川から運ばれた丹波の木材が使用され、水路があったからこそ生活や文化が築かれていた。

 

その後、江戸時代の河川開削工事をへて、木材だけでなく、食糧などの物資も運ぶことができるようになり、土壌が豊かで穀物が豊富な亀岡は「京の台所」と呼ばれている。

 

保津川から経済が生まれ、生活が変化し、文化が築かれていったのだ。

 

人と川の関係を捉え直すのに、こうした先人の営みが鍵になるのかもしれない。そんな考えを胸に、亀岡の歴史や風土、信仰について幅広く知っている、亀岡市文化資料館学芸員の飛鳥井拓さんと一緒に、川と生活の変遷を映しだす地を巡った。

保津川の平穏を祈るために建てられた、2つの神社

科学が発展した現代では、災害が頻繁に発生するから神に祈る……そう考える人は少ないだろう。しかし、地球が自転していることを知らず、雨が降る原理も分からなかった時代は、自然現象の制御を神に頼るしかなかった。

 

保津川には川の平穏を神に祈るため、当時の丹波国守は、保津峡の入口に「請田神社(うけたじんじゃ)」と「桑田神社(くわたじんじゃ)」を建設した。二つの神社は、保津川を挟むように鎮座している。

南丹市八木地区から亀岡市にかけては「大堰川(おおいがわ)」、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは「保津川(ほづがわ)」などと名が変わる。記事では総称して保津川と記載している。

両神社の由来は、神代に「大国主命(おおくにぬしのみこと)」が保津川を開墾したときに、「鍬」を「うけた」という話が元になっている。両神社には、保津峡を切り開いた神様「大山咋命」と水の神様である「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」が祀られている。

両神社で祀られている大国主命は、京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社にも祀られており、同神社のホームページによると、太古の昔よりここ地方一帯に住んでいた秦氏が、守護神として尊崇されていたそうだ。

保津川を開削した秦氏の氏神が請田神社と桑田神社の両神社に祀られているのは興味深いと言えます。秦氏は土木工事だけでなく、鉱山技術や鍛冶技術、養蚕などさまざまな技術を日本に持ってきました。

取材班は、はじめに請田神社を訪れた。

 

請田神社は保津川が峡谷に入る狭窄部に位置する。上を見れば山、下を見れば保津川と、なんとも険しい場所にあり、神社からおどろおどろしさを筆者は感じた。

請田神社の向かいには嵯峨野観光鉄道が見え、トロッコ列車が走っている。

請田神社から見る保津川は、川幅が狭くて水流も早く、やや荒々しく感じる。道路もなく、川も整備されていなかった古代には、神様が保津峡を切り開いたように仰々しく見えたのだろうか。

次に、桑田神社を巡ってみよう。

請田神社と比較して、保津川とも距離があり、神社の敷地が広かったり、ゆったりとした雰囲気を桑田神社からは感じられた。しかし、昔は保津川のすぐ近くに桑田神社も位置していたという。

桑田神社は嵯峨野線を挟んだ東側にあります。保津川からやや距離があるように見えますが、当時は桑田神社のふもとまで保津川があったと考えられます。

秦氏の土木工事では、川幅を深くし、水流を強くしたと言われている。当時の木材の運搬方法は、「筏(いかだ)流し」と言われ、筏に木材を編んで下流に運搬していた。これをやるには、一定の水流が必要だったため、川幅を深くしたのだ。その後、江戸時代に大規模な開削工事をし、近代にわたって工事は繰り返され、今の保津川の形となっていったそうだ。

奈良時代の平城京から豊臣秀吉の時代を経ても、保津川から運ばれた丹波の木材は使われ続けた。また木材の運搬は、保津川一帯の地域の経済を、豊かにし、人々の生活も変わっていった。

川の恵みと危険が隣り合わせ。それでも住み続ける人の生活

保津川が木材の運搬手段として使われ始め、新しい職業が生まれた。それが筏を目的地まで運ぶのに舵取りをする「筏師」だ。

世界的にみても、汽車や車が普及する近代以前の運送は、水運がメインでした。そのため、保津川の筏師がとても大切な役割を担っていました。

桑田神社の周辺にある集落では、保津川水運を生業とする人たちが住んでいる。そして、彼らは昔から舟運の無事を桑田神社に祈っていたという。桑田神社には、今でも多くの筏師・船頭の名前が刻まれた石灯籠が置かれている

「舟筏無難」と刻まれた石灯籠
船頭が多く住んでいた桑田神社周辺の集落は江戸~近代の景観をとどめている

江戸時代に入り、角倉了以・素庵によって保津川が開削されたことにより、筏しか通れなかった保津川の水路は、船が通れるようになり、米や麦、漆器など特産品の運搬も可能に。地域一帯は経済的にも豊かになった。一方で、保津川は何度も氾濫を起こした。水害の危険と隣り合わせのような生活を送っていたそうだ。

篠町山本や保津地域には、江戸時代以来の景観が残っています。特徴としては、水害防止用の生垣があることです。畑も家の外に設けるのではなく、門の内側に作って、浸水しないようにしています。

 

生垣の景観の起源を考えるのは難しいですが、室町時代までには畿内の集落は現在地へ移動してきたと言われています。生垣の景観も定住化したのちに発達した可能性があります。

道路によって石垣は埋められてしまっているが、当時はもっと高かったとされる

幾度とない水害で、家が浸水しても、壊れても、この地には人が住み続けた。京都市内に住む筆者は、水害の大変さを味わったことがない。しかし、近年の水害報道をテレビで見るだけでも、その苦労は多少なりとも想像できる。それでも、当時の人々がこの地にとどまり続けたのは、この地には豊かな土壌と豊富な水があり、農業に向いていたからかもしれない。言い換えれば、「食べるのには苦労しない場所」とでも言えようか。

 

自然の「恵み」と「猛威」は、隣り合わせ。飢えたくないなら、水害は仕方ない。制御するのではなく、“自然のあるがまま”に応答するような生活を築いていたのだろうと筆者は想像する。あるときは「仕方がない」と自然に折れ、それでも自然と付き合っていく「辛抱さ」がある。当時の人たちは、ほんとうの「しなやかさ」を身につけていたのかもしれない。

水を治めることが国の繁栄に繋がる

船が通れるようになった江戸時代、初代丹波亀山藩主・岡部長盛によって氾濫を抑えるために「内膳堤(ないぜんづつみ)」も築かれた。内膳堤は、川が曲がって流れている部分に石積みを設置する方法だ。このおかげで、水害による河畔の農地への侵食が減ったとされている。

 

水害の危険性も減り、木材以外の特産品も運べるようになり、ますます地域は豊かになった。それゆえに、亀岡は「京の台所」とも言われるようになったのだ。他にも、その豊かさは、農産業を発達させただけでなく、文化にも注ぎ込まれた。

 

近代に至るまでに、秦氏、そして角倉了以の時代に保津川の開削工事が実施された。その共通点について飛鳥井さんが見解を述べてくれた。

どちらも中央集権的な時代だったことが共通点になります。川の開削工事をするためには、多くの人員と資金が必要になります。中央に力が集中していることで、人も資金も投資しやすかったのでしょう。

 

亀山城を建て、丹波国一国を支配した明智光秀でも、開削工事はしていなかった。それほど大工事には人と資金が必要だったのだと思います。

水害は経済発展と社会秩序に大きく影響する。「水を治めるものは、国をも治める」という言葉もあるように、水を治めれたら、農業収益の確保ができ、人々の生活が安定し、国の繁栄となる。江戸時代の保津川は、それを象徴するような場所だったのだ。

離れては生きられない。そして、捉え直す「川の関係」

川を切り開いた神様を信仰していた時代から、川は徐々に農業や交通など「活用」するものへと関係が変わっていった。そして神社に寄せられる願いも、「川の平穏」から「船頭の安全」と変わり、神社の役割は「権力を誇示する」側面も帯びた。

 

取材をする中で取材班は1つの仮説にたどりついた。それは、信仰の対象となるものには一定の「距離」があるのかもしれないということ。

 

古くは奪うも与えもするいのちの源泉でもある「水」自体が、神であったのかもしれない。一方で、保津川は“神の領域”から“人の世界”に近づいていってしまった。それが悪いことか、良いことかは、私たちにはわからないが、保津川地域の人々は水の恵みを受けつつ農業を発展させ、生活は向上した。

 

しかし、忘れてはいけないことは、私たちは自然を完全に制御できたと思ってはいけないことだ。技術が発展した近代に入ってからも、保津川は何度も氾濫をしている。昭和35年の台風16号では、戦後最大の出水を記録し、JR亀岡駅周辺までが浸水した。一番記録に新しい平成16年の台風23号では、土砂災害が発生して、亡くなった人たちがいる。

 

川への信仰も薄くなり、氾濫の頻度が上がってしまった川は、これまで見てきたようにまちの発展を支え、暮らしの恩恵を与えてくれるだけでなく、同時に大きな脅威でもある。

 

しかし、私たちは川から離れて生きていけないということを、忘れてはいけない。今では、蛇口をひねると水が当たり前のように出てくるが、元を辿れば、川から水を引っ張ってきている。現代の発展が、川との関係を“見えないようにしている”だけなのだ。

 

娯楽と災害の対象としてしか見られなくなった川だが、先人の生活をヒントに、どう関係を編み直せるのか、川と向き合うべきなのか、考えを巡らせることが大切ではないだろうか。

探訪のガイド

飛鳥井 拓(あすかい たく)

新潟大学大学院博士前期課程修了。新潟県出身。民間企業を経て平成28年より亀岡市教育委員会にて学芸員として勤務。専門は日本中世史。主な論文に「戦国期丹波国の守護代に関する一考察」,「天正八年武吉村指出帳と丹波国検地」などがある。地域住民と連携した亀岡市域の史資料の掘り起こしとフィールドワークに取り組んでいる。

RECENT POSTS

EDITOR

Deep Care Lab
Deep Care Lab

Deep Care Labは、祖先、未来世代、生き物や神仏といったあらゆるいのちのつながりへの想像力をはぐくみ、ケアの気持ちが立ち上がる創造的な探求と実践を重ねるリサーチ・スタジオです。人類学、未来学、仏教、デザインといった横断的視点を活かし、自治体や企業、アーティストや研究者との協働を通じて、想像力がひろがる「窓」を新たなインフラとして形成します。

Other Posts