「ブンガクの小窓」第三章は「虚構」(キョコウ) を考えます。
キョコウ。なんとなくウソっぽい字面。どういう意味だろう。
フィクション、と英語にしただけでわかった気になってはいけません。
今回は「ブンガク語」、虚構を扱います。
▼これまでのブンガク語たち
虚構とはなにか
「この映画はフィクションです」、というただし書きを見たことはないだろうか。ドラマや映画の最後に、このようなテロップが流れてくる。これは内容がほんとうのことではない、という意味だ。たいてい、実在の人物や事件、団体とは一切関係がありません、と続く。物語の中でどんなにバタバタ人が死んでいようが、本当に事件が起きたわけではありませんよ、と断り書きがしてあるのだ。
ドキュメンタリー映画の場合、もちろんこのただし書きはついていない。だとすると、
ドキュメンタリー=実話 ←→ フィクション=虚構
となるはずである。
ところが、そう簡単にはいかない。
ドキュメンタリーは本当に実話なのだろうか。
確かに一般的には台本なく、実際に撮影した映像をつなぎ合わせたものをドキュメンタリーと呼ぶことが多い。でも、よく考えてほしい。
ドキュメンタリーで取り出した現実の中のひとつづきの「物語」は、本来現実のひとコマのはずだ。そうやって取り出してしまうことで、作者の意図に従って、単純化されてしまってはいないだろうか。作り話、というのがフィクションの意味だとすれば、ドキュメンタリーだって多かれ少なかれ、そうやって作られた話であることには違いがないのではないか。
そう考えると境界線があいまいになってくる。
テーマパークの虚構
それでは今回の結論を先に言ってしまうことにしよう。
虚構とは、「現実性があいまいになる領域」である。
たとえば「テーマパーク」はどうだろう。
USJや東京ディズニーランドなどさまざまなパークがある。それらは実際に、その場所にあるけれど、ひとつのテーマにしたがって大きなフィクションを形成しているのではないか。
キャラクターの着ぐるみひとつとっても、これは着ぐるみだ、と知りつつ、そのキャラクターそのものだ、と捉えることが大切である。「ミッキーだ!」と喜んでいる人に、いえいえそれは着ぐるみですよ、と教えてあげるなんて野暮だし、夢を壊さないでくれと言われてしまうのがオチだ。
ここで虚構にとってもうひとつ重要なことがある。それは、虚構が虚構だということが理解されているということだ。ミッキーに喜んでいる人だって、それが着ぐるみであることは理解している。けれど、「それは言わないお約束」なのである。だから単純な「嘘」とは区別される。
ある意味でゴッコ遊びみたいなものであることが虚構の規定を為している。
現実の説明としての虚構
現実のことを説明する虚構はどうだろう。
「落雷」があったとする。
現代では科学的にこれを静電気だと説明するわけだが、大昔は違った。
たとえば神様のたたりだと説明したりしていた。罪人のせいで村ごと呪われてしまったのだ、というわけだ。現代のわれわれからすれば、これが虚構であることはわかっている。落雷は自然現象であり、神様のたたりなわけがない、とせせら笑ってしまうかもしれない。
間違った説明は虚構でありうるというわけだ。
では、間違った説明が間違っていると証明されるまでの間、それは虚構なのだろうか。別の言い方をすれば、虚構であるにもかかわらず虚構であるという認識が欠けている場合、それは虚構と言えるのだろうか。
先ほど見つけた規定からすれば、これは虚構ではないはずだ。ゴッコ遊びになっていないのだから。ということで、問題を区別してこれを「仮説」あるいは「仮構」と呼ぶこともある。
フィクション論とは
ここで一冊ご紹介しましょう。複数の著者がフィクションについて語る、「フィクション論」のテーマパークのような作品だ。
著者はそれぞれ文学研究者であり、また無類のフィクション愛好家であるため、解説にも熱が入っている。そして具体的考察は読者の興味をそそるテーマばかりだ。SF『透明人間』や、プロレス、テーマパーク、女装・男装。そしてそこから一歩進んで、フィクション論自身のこれまでの研究史など理論的な面までがカバーされている。
この本では、フィクションとは何かという問いに対して、「嘘でも本当でもないもの」と答える。真偽の判断が問題にならない領野にある、いわば「みずからを指し示す仮面」なのだ、とある著者は述べている。
ご興味のある方はぜひ。
いかがでしょうか。「虚構」というなんとなく耳なじみの薄い言葉でも、ふたを開けてみれば現実と嘘の境に迷い込んでしまう奥行きがある。
よく考えると、バンド、演劇、絵画鑑賞、これらはどれも虚構の領域にあるものなのかもしれない。さあ、あなたが作りだすのはどんな虚構ですか。現実と現実でないもののはざまで。