移動中、なんとなく気になって瀋陽のコリアンタウンについて調べた。出稼ぎに来ている女性は二人一組で生活と仕事をし、お互いに逃げ出さないように監視する役目があるらしい。接客をしてくれた女性は、かわいらしく、朗らかで化粧っ気のない若い女の子だった。日本で得る北朝鮮の情報はどこまでは真なんだろうか。どのような国であれ、その中での暮らしや日々の喜びや悲しみは僕らと大きく変わらないのだとも思う。この子がもし、韓国や日本に生まれていたらどのような人生を歩んでいるのか、ということを少し考えさせられた。
今回の旅でなにより強烈だったのは、新疆ウイグル自治区だったことに間違いない。モスクワからの経由で、ウルムチ空港に行きは3時間、帰りは10時間の滞在だった。このレポートを読んでいる人が、どれくらいウイグルの現状を把握されているかわからないが、思っている以上に中国共産党の介入が厳しいというのが訪れた感想だ。
まず少し説明をしておきたい。新疆ウイグル自治区は、中国の領土という扱いになっているが、その文化や住んでいる民族に関しては漢民族のそれとは大きく異なる。元は、東トルキスタンというイスラム教徒のウイグル族が大多数を占める独立国家だ。それが第二次世界大戦後のどさくさで、中国が自国の領土としたものがウイグル自治区である。ウイグル族は元々独立志向が強かったこともあり、これまで何度も中国共産党との衝突が起きていて、チベットの状況に近いというとなんとなくイメージしやすいだろうか。
その原因は立地にある。国境はカザフスタン、キルギスなど多くの中央アジア諸国と接しており、アジアの玄関口とも言える場所だ。さらにその領土は広く、実は中国の1/6ほどを占めている。そのため中国が掲げる一帯一路構想の最前線の要所として、超管理体制を敷かれている状態だ。
今後一度はウイグルを訪れたいし、あまり大っぴらに書きたくはないので詳細は端折るが、ウイグルに関する暗い記事はたくさん出てくる。どれを読んでも21世紀を生きる我々にとっては驚くような内容ばかりだとは思う。興味を持った人にはそちらをググってもらいつつ、僕のレポートではウイグルを目的地としない旅行客がどのような扱いを受けるのかのサンプルとして読んでいただければ幸いである。
まずは行きの話からしよう。到着して、出国するまでの3時間。やることもなかったので空港で本を読んで過ごし、そのまま保安検査を通過した。問題が起きたのは出国時である。はじめての体験だったのだが、出国の審査で引っかかった。何故か全くスタンプを押してくれず、最終的にはパスポートを取り上げられ、別室へ連れて行かれる。
その後、執拗に「どこから来たのか」、「仕事はなにをしているのか」、「誰と来たのか」と聞かれたあげく、携帯やカメラも取り上げられすべての中身をチェックされる始末。この間なにを言っても暖簾に腕押しの状態で、何故出国させてくれないのかもわからない。パスポートだけでなく、連絡手段である携帯を取り上げられ、ただただ尋問を受けるというのは、言葉も通じない異国の土地では本当に不安になる。最終的には開放されたものの、出国だけでこれだけ疲れたのははじめてだった。
そして問題は帰りである。帰りは乗り換えに10時間超もあるし、時間をつぶそうにもウルムチの空港にはソファもなければ大したショップもない。街へ出るのも一苦労だろうとは思っていたが、せっかくなので少しでもウイグルの現状を見られればと思い空港を離れる覚悟をしていた。
他の国の数倍は厳しい入国のチェックを抜け、キャリーケースをピックアップする。空港ロビーの出入り口にまで行くと見慣れないカウンターがあった。どうやらトランジットの人には強制的に、街外れのホテルが手配される仕組みらしい。つまり「街中へ行く、現地の人に接触するなどの行為は許さない」、ということである。
上記の流れから逃れる術などあろうはずもなく、他のトランジットの客同様、ウイグルの街並みを見たりウイグル人と接触することは一切ないまま、指定の “安全な” “中国式の” ホテルへ連れられていくことになった。もちろんホテルへ向かうまでの道も “整備された” ルートだ。そしてホテルへ着いたあとは、チェックインと同時にパスポートを取り上げるという徹底ぶり。そもそもホテルの入口に紅袖章という赤い腕章をつけた、監視・保安員が3人待機しているので外に出るのは相当困難なことは間違いがないが。
ホテルまでの移動中、事情を知らない若い日本人女性客が、「ホテルまで手配してれるなんて気が利いているね」とか、「ホテルのまわりって、ショッピングできるのかな」と言っていたが、そう感じるのも無理はないと思うくらいに、ウイグルの街や人から隔離されされるシステムができあがっていた。僕と同じく街へ寄ることを期待していたのか、他のトランジット客が地球の歩き方を手にしていたことを覚えている。こうして「少しでも街を見られたら」という淡い期待は粉微塵に粉砕され、何事もなくそのまま出国ゲートへ向かい、帰国の路についた。
『アベンジャーズ エンドゲーム』が提示する “共存するということ”
ロシア・中国を経ての『アベンジャーズ エンドゲーム』である。僕は帰国したその足で見に行ったが、本当に素晴らしい作品だったし、この映画がウイグルで感じたモヤモヤを吹き飛ばしてくれた。この作品ではMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の1作品目、2008年に公開された『アイアンマン』から足掛け約11年かけて描いてきた “共存のあり方” が、シリーズの集大成として力強く提示されていた。何度も言うが、ここまでMCUを追いかけていなかった方が、時間をかけてでも追いかける価値のある作品だと思う。
思えば、前作『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』は、まさかのヴィラン(アメコミの悪役のこと)であるサノスを中心としたストーリーだった。サノスは「宇宙の限りある資源を救済するために、人口を半分にする」という彼なりの正義を持っており、サノスの過去の話や、最愛の娘との死別とそれを乗り越えて成長(?)し、巨大な敵(アベンジャーズ)との死闘が行われる。これまでアベンジャーズとヴィランの “正義” 対 “悪” という描かれ方が多かったMCU作品の中では、異質な作品であることは間違いない。この作品では “正義” 対 “悪” が、 “正義” 対 “正義” のような描かれ方をしているで、僕は作品を見終えてまんまと「サノスの言わんとすることも一理ある、そう言う考え方もあるよなあ」といった感想を持った。そういった方も多いのではないだろうか。
そんな僕らが共感しかけてしまった、サノスの正義に真っ向からNOを突きつけたのが今作の『アベンジャーズ エンドゲーム』と言える。『アベンジャーズ エンドゲーム』何度もサノスは「I’m inevitable.(私は絶対なのだ)」と口にする。事実彼はそう言えるほど強く、賢い。そんな彼が、個の力では劣るアベンジャーズの面々のチームプレイの前に敗れるわけである。サノスの「他者の意見を認めず、自分だけを絶対とする “正義”」、「世界を均一な価値観の元に統一する “正義”」は、彼の敗北という形で世界からはじき出された形となった。この価値観こそが、“文化の共存を分断する” 最大の要因だと言わんばかりに。
アベンジャーズは、元々仲良し小好しのメンバーとして過ごしてきたわけではない。人種どころか、宇宙規模で種族をこえて共存する彼らは、何度も文化やスタンスの違いにより衝突してきた。事実、『アベンジャーズ シビル・ウォー』ではそういった問題が一気に噴出した。内紛のきっかけはウィンター・ソルジャーやソコヴィア協定に関する是非ではあったが、大本の原因は “文化の違いから、互いの正義を容認できなかったこと” にあるのは間違いない。
しかし彼らは、時を経て “互いの正義を共存すること” ができるようになったのだ。互いに理解できなかったり、納得できない部分はあるだろう。それでもお互いに距離を模索し、 “そこに存在することを容認した” のだ。そういった各々の正義の集合体であるアベンジャーズが、絶対的なひとつの正義しか持ち得なかったサノスを打ち負かすことに大きな意義があると思う。そしてラストバトルでは人種や性差をこえたインフィニティ・ガントレットのリレーである。私たちが今の世界の一員としてどのように生き、振る舞い、なにに立ち向かうべきか、これほど力強いメッセージが他にあるだろうか?この映画は僕にウイグルでの弾圧的な体験を想起させたし、間違いなく今の社会の不寛容さに対する明確なNOだと思う。
思えば、ドクター・ストレンジが語った「1400万分の1の確立での勝ち筋」は、どちらかが滅びなければならなかった悲劇的なエンディングでしかなかったとも言える。僕たちは残りの1399万9999通りもあるやり方で、共存の道を歩めばよいのだ。
最後に。なによりMCU作品がすごいのは、純粋なエンターテイメント作品としてのクオリティが高いところにある。全然説教臭くないし、一見するだけならただのアクション映画として誰でも手軽に楽しむことができる。よく覚えているのは映画を見に行ったとき、待合室には、人種や性別、年齢など非常に幅広い人がいたことだ。そしてその全員が、映画館という同じ空間を共有し、作品に涙し笑い声をあげたこと。昨今、やりきれないニュースや、生きづらく感じることはたくさんある。それをどのように伝えるのか、カルチャーの役割はそんなところにある。そんなことをフライトで疲れた頭でぼんやりと思った。