「勉強」って、自分の地図を広げていく行為なのかも。 取材を終えた私たちが思う「勉強とは何か」の答え。

「勉強」って、自分の地図を広げていく行為なのかも。 取材を終えた私たちが思う「勉強とは何か」の答え。

「勉強」って、自分の地図を広げていく行為なのかも。 取材を終えた私たちが思う「勉強とは何か」の答え。

勉強や教養について3名の方にお話をうかがった「#わからなさを取り戻す」企画。勉強する人、勉強を教える人、勉強をビジネスにつなげる人……三者三様の視点による「勉強とは?」を追いました。お話を聞いた私たちも、自分たちなりの答えを出してみたい。そう考え、執筆者の土門蘭と、編集者の堤大樹が「勉強」について語り合いました。


大人になった今の私たちは、果たして「勉強」できているのか?「#わからなさを取り戻す」という企画を考えた時、根本にあったのはそんな疑問でした。

 

わからないことはすぐ検索し、かつてない量の情報を摂取している私たち。それは本当に「勉強」できていると言えるのか?どうすれば「勉強」できるのか?そもそも「勉強」ってどうして必要なんだっけ?……そんな問いを持って、勉強家、経営者、教師の3名の方にお話をうかがいました。

 

問うて教わったあとは、自分たちで考える時間です。三者三様の「勉強とは?」を聞き終えた執筆者の土門蘭と編集者の堤大樹が、改めて自分たちにとっての「勉強とは?」について語り合いました。

 

あなたにとっての「勉強」とは何でしょう? 一緒に考えてみていただけると嬉しいです。

土門蘭

1985年広島県生、京都在住。小説・短歌などの文芸作品や、インタビュー記事の執筆を行う。著作に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』(寺田マユミとの共著)、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

堤大樹

ANTENNA 編集部 代表/PORTLA 編集長/Eat, Play, Sleep inc. 代表/LW クリエイティブディレクター

26歳で自我が芽生え、ようやく7歳になった。「関西にこんなメディアがあればいいのに〜」で2013年にインディペンデント×カルチャーにフォーカスしたANTENNAをスタート。2020年に文化にまつわる制作会社Eat, Play, Sleep inc.を設立。2021年には「旅と文化」をテーマとしたメディアPORTLAを立ち上げ、編集長に就任した。持ち味はエゴの強さ。

「情報」が「知識」になりにくいのはなぜなんだろう?

土門

特集「#わからなさを取り戻す」では、3名の方に「勉強」についてインタビューしました。記事を読んで、堤くんはどんなことを感じましたか?

まずは、これまで自分がぼんやりと捉えていた「勉強」について、さまざまな角度から回答をいただけたなと感じました。兼松さんの「勉強って布石を置くことだと思う」という表現は印象に残っている言葉のひとつです。知識を取り入れるだけではなく、文脈を紡いでいく。「点と点をつないで、星座にしてみる」。その重要性と難しさはずっと感じていて、言語化されてクリアになりました。

 

同時に、兼松さんの「独学限界説」もおもしろかったです。独学者同士が集まったとしても、視野は広くなるけど深くはならない、という部分。このジレンマって、今の社会でもまんま起きていることだなって。

土門

それは例えばどういうシーンで?

例えば料理レシピのサイトってありますよね。でもサイトでレシピを見ても、料理って上手くならないなって思うんですよ。

 

なぜかというと、僕たちは知っていることしか検索できないから。例えば「人参のラペ」のレシピって、そもそも「ラペ」を知らないとたどり着けないじゃないですか。ラペってものがあるんだってことを、家庭なりレストランなりで知ったり、学校で教わっていないといけない。

土門

確かに、知っていることしか検索できないですからね。インターネットで辿り着けるのは、知っていることの延長線でしかない。

そうして得た情報って、なかなか知識になりにくいなって思うんです。自分が情報を摂取して、それが知識になったとき、初めて自分の中で「布石」になる。そこに意味を見出すのが「学び」だろうと思うんだけど、そもそも情報自体が知識(布石)になりにくいのだろうなと。

土門

それはわかる気がします。情報を摂取しても忘れてしまうんですよね。でも知識にならないのって、どうしてなんでしょうね?

なんででしょうね。情報をいかに知識にするか……そこがすごく大事な気がする。その最初のフックってどこにあるんでしょうね? 小路口先生は「情念」と言ってたし、森さんは「スパークジョイ」って言っていたけど。

土門

「情念」も「スパークジョイ」も、つまりその人の持つ「テーマ」ですよね。もしかしてインターネットの情報が通り過ぎてしまうのって、「テーマ」から探しているのではなく、「都合」から探しているからじゃないでしょうか。

 

例えば「最高に美味しいカレーが作りたい」ってときに見るのって、レシピサイトじゃない気がする。カレー研究家のレシピ本を買ったり、カレーに詳しい人から教わろうとするじゃないですか。そうやって仕入れた情報は、自分の「テーマ」に関わることだから忘れない。

 

でも、「冷蔵庫にこれが残っているから使い切りたいんだよね」っていうのは「都合」。つまり外的要因による情報収集だから、自分ごとになりにくくて、そのために得た情報はすぐに忘れてしまうんじゃないでしょうか。

なるほど。

「勉強」は自分を覆っているものを剥がしていく行為

土門

この3名のおっしゃっていることを自分なりに解釈すると、みなさん同じことをおっしゃっているなと思うんです。つまり「『勉強』を通して自分を知りなさい」ということかなって。

 

これまで私は、「勉強」とは自分の足りていないところを埋めていくことだと思っていました。穴を埋めて、自分が成長するためにするのが「勉強」だと。でも、インタビューを繰り返すうちにそうじゃないなと思ったんです。

 

あのね、例えば「自分」そのものが球体だとしますよね。でも、普段はその一部しか出ていないんです。土か何かに覆われていて。

はい、イメージできます。

土門

「勉強」って、球体の不足分を埋めることだと思っていました。でも本当はすでに球体は100%で、「勉強」は球体を覆っているものを剥がしていく行為なんじゃないかなって思ったんです。

 

例えば、私が初めてフランス料理を食べたとしましょう。そうしたら、私という球体に「フランス料理」という角度から刺激が伝わって、その部分の土が剥がされていく。無知という布が剥がされたときに「あ、フランス料理を食べるとこんなふうに感じる自分がいるのね」とわかる……つまり、フランス料理のことを知るのではなく、フランス料理を通して自分を知るってことですね。

 

そういうふうに、いろんな角度から土を取り払って、自分を知っていくのが「勉強」なんじゃないかなと。

言わんとすることはわかります。でも、そもそも自分の感覚に敏感であることがすごく難しいんですよね……。

 

実はここ数年で、明確に仕事の向き合い方を変えたタイミングがあったんです。僕は起業する前からメディア活動やクライアントワークなど自分のプロジェクトを持っていて、またそれと同時に会社員でもあるんですが、以前は「自分のプロジェクト」と「会社のプロジェクト」を意識的に切り分けていたんですよね。でも上手くいかないこともが多くて、その境目をある日なくしたんですよ。

土門

そのふたつの境目って何だったんですか?

要は、仕事は仕事、活動は活動、という自分の中でのセグメントわけです。「会社のプロジェクト」は自分が会社に貢献できることを還元し、お金やコネクションというバックを得る。「自分のプロジェクト」はDOであり、自分のやりたいことを純粋に追求するためにあると。これってつまり自分が二人いた状態ですよね。

 

だけど土門さんの話は、「自分はひとつである」ってことだと思う。見る角度を変えたとて、自分は自分でしかないし、やるべきことやあるべき姿はひとつしかない。

土門

はい、はい。仕事だろうが活動だろうが、堤くんは堤くんでしかないですからね。

そう、それを素直に受け入れられるようになって、会社の仕事にも、自分のプロジェクトにもやってきたいろいろがようやく相互に生かせるようになったんですよ。

土門

それで、どっちも自分のDOになった?

です。その結果、相互作用が生まれていって。

土門

何だか最近よく思うのだけど、結局DOじゃないといけないなって思うんですよね。自分から生み出すものっていうか……。

ていうか、DOって何なんですかね? 自分から言っておいて何なんですけど(笑)。

土門

いや、わからないけど(笑)。でも、自分丸ごとで社会に飛び込んでいく感じじゃないでしょうか。そこで起きる波紋のことをDOだと思っているかも。自分がどう社会に影響を与え、影響を受けるかっていう。

 

でも「勉強」って、社会に飛び込むまでの準備っぽいイメージがあるでしょう。泳ぎ方がわからないから、泳ぎ方を学んでから飛び込もう、みたいな。そうじゃないと飲み込まれて死んでしまうから、みんな勉強するのだと思う。だけど、この3名の話を聞いていて思ったのは、飛び込むことまでして「勉強」なのかなって。

昨日、坂口恭平さんの記事を読んだんです。彼の言葉を借りると、学びとは「プラクティス(練習)」であると。坂口さんってめちゃくちゃ絵を描くし、曲を作る。ものすごい量の表現をする人なんですよ。自分から何が生まれるのか、それがどう社会と影響し合えるのかを、一生プラクティスするんだぜっていう姿勢なんです。

土門

まさにDOですよね。

そう。めちゃDOなんです。だから「学び」っていうのは、何かを取り入れることではなくて、何かを練習して上手くなったり変化したりして、自分にも周りにも影響を与えて変化していくことなんだなと。自己変容みたいな。

土門

その自己変容って、さっきの表現を使えば「自分という球体が見えてきた」ってことなのではと思うんですよ。多分、これまですでにあった自分なんですよね。プラクティスをすると、いろんな自分が見えてくる。運転ができるようになったとか英語が話せるようになったとかなんでもいいんだけど、どんどん新しい自分に出会えていく。でもその自分って、変わったんじゃなくて「もともといた」んじゃないかなと。

 

だから、自分は足りていないから補わないととか、自分は変わらないといけないっていうことなんじゃなくて、おそらく100パーセントの自分はすでにあるんです。それを認めなさいってことなんじゃないかな。この3名のインタビューを終えて、「自分以外のものになろうとするな、自分のことをもっと知って、自分自身にもっと戻れ」と言われているような気持ちになりました。

学ばないといけないと思うのは「恐怖」があるから

土門

でも、私たちはそもそもどうして「DO」や「プラクティス」や「学び」とかをしないといけないって思うんですかね。しなくても生きていけるじゃないですか。

うーーーん。退屈だからじゃないですかね? 変化がないとつまらないから。あと、僕は変化をしないことに対してずっと恐怖を感じているんですよね。「変わらない暮らし」と言えば聞こえはいいですが、社会や肉体の変化で50歳、60歳になった時にできることは減っていきますから。

土門

恐怖。

はい。以前勤めていた会社には新卒から4年半ほどいたんですけど、自分自身その間何も変わっていない、何も身に付いていない気がしてしまって辞めたんです。つまり、自分の力不足もあってプラクティスも学びも一切そこで見つけられなかった。この状態で10年、20年後にいざ仕事がなくなったら、自分に何が残るんだろうなと。だってその間にもほぼ変化してないわけでしょ。

 

自分の理想としては、やりたいこと・好きなことをしながら飯が食える状態でありたい。それが50歳になっても60歳になってもできているようにするためにはどうしたらいいんだろうと、今でも考えています。歳を取ったら感度や体力が落ちて前線にはいられなくなるだろうし、インパクトやフレッシュさを保ち続けられるって自信が自分にはなくて。土門さんはそんな不安はないですか?

土門

もちろんあります。自分の感度が衰えて、固定化していく恐怖は今も現在進行形であります。

 

若い頃は、その恐怖を人間関係によく感じていたんですよね。例えば恋愛で言うと、付き合っている人とのマンネリっていうんでしょうか。それがすごく怖くて、変化がないといけないって思って、付き合っては別れてを繰り返していました。

 

なんでかって言うと、私は付き合っている人を通して自分という球体を見ていたからなんです。恋人に飽きるのではなく、恋人が見ている私に飽きてしまうんです。恋人が同じ視点からしか見てくれなくなると、私の球体を覆う土の面積はいつまで経っても変わらない。でも、例えば違う人が登場して違う視点から私を見てくれたとするでしょう。「あなたにはこういうところがあるよね」「あなたはこういう人だよね」と教えてもらうと、「ああ、新しい私を教えてくれてありがとう」ととても嬉しくなる。

 

よく「この人といると新しい世界を知れそう」と言うけれど、あれって「新しく自分を知れそうな気がする」ってことなんじゃないかなと思うんです。つまり、「自分=世界」。人生って、自分という世界を知って広げていくことなのではないかなと。

なるほど。

土門

でもそれって、他者の目を通してしか自分を見られないってことだから、要は相手に存在意義を委ねて依存しているんですよ。自分自身で「自分」を発見したり、広げたりすることができなかった。そのことに若い頃は気づかなかったですね。

自分で自分を知っていかないと自分に飽きちゃう

今は、自分で自分を発見できるようになったと思いますか?

土門

前よりはできるようになった気がしますね。

そのきっかけって何なんですか?

土門

まあ、私の場合はやっぱり何かを作ることだと思う。小説だとかエッセイだとか、自分の中から何かを生み出す行為。つまりはプラクティスですよね。

 

他者の目を通してだけではなく、私が表現する何かを通して「自分」を見られるようになった、って感じかな。今もできているかどうかわからないけれど、ちょっとずつ。

 

以前は他者にどう見られるかに依存していたけれど、自分で自分を知っていかないと自分に飽きちゃう。そのためには作らなくちゃいけないし、そのためにはインプットもいる。その繰り返しがプラクティスであり、勉強なのかもしれないですね。私にとって。

仏教の言葉で「諸法無我」って言葉がありますよね。多様な人やものとのとの関係性、その一つ一つが自分であると。確かに、新しい人との出会いによって新しく自分を知れるってことは大いにあります。でもそれだけじゃなくて、自分自身でアウトプットするんだっていうふうに考えられたのはすごいですよね。

土門

例えば、他者からの視線が集まって、その集合体が自分の輪郭を作るとするじゃないですか。でも、それだけに頼ってしまうと、私の輪郭ってやわやわだなぁって思ったんですよね。堤くんが「土門さんの文章最高です!」って言ってくれている間は、私の輪郭の「書く」部分がフワーって広がるかもしれないけれど、逆に「最近土門さんの文章、全然おもしろくないですよね」って言われたらえぐれていっちゃう。堤くんの言葉いかんによって、私の形が変わるでしょう? だから、自分の輪郭、自分の存在意義を、他者との関係性だけに委ねておくとしんどいなって思ったんです。

他者との関係性だけに依存せず、自我を保つためには何が必要なんでしょうね?

土門

私が持っているイメージとしては、自分の中に温泉を持つって感じ。自分の奥から、バーってお湯が出るの。私の場合はそれが文章なんだけど、そしたら外側から輪郭が作られるだけじゃなくて、中側からも輪郭を押し出すことができるじゃないですか。自分の輪郭を、自分で広げることができる。

ああー。相手から影響を受けると同時に、それを押し返す可能性を持つってことか。他者からの視線が一方的だと流れ込んでくるばっかりだけど、自主的に押し返すこともできる。その自覚が持てると、プラクティスへの恐怖心がなくなっていくのかも。作品を生み出すってそういうことかもしれないですね。

土門

自分が球体だとすると、きっと温泉の源はいろんなところにあるんですよ。これまでは、他者の視線で輪郭を描いていたけれど、今は他者の視線や外部の刺激がビームになって、その源泉を掘り当ててもらっているような感じ。そこから温泉が噴き出し、中側からも輪郭を押し返す、みたいな。

 

でも、その穴の数が少ないと、源泉がすぐ尽きちゃうんですよね。そしてやっぱり退屈になる。それを自分で掘り当てる方法が「勉強」なような気がしてきました。例えばフランス料理について勉強したら、フランス料理と接する自分の穴が掘られて、新しい温泉が中から出てくる。その穴がどんどん増えていけば、めちゃくちゃ温泉が出ますよね。

確かに。

土門

そうありたい。自分でも自分の球体を掘って、温泉を見つけていきたい。それが他者や社会に対してどう影響を与えていくのかを見てみたいし、もっと穴を掘っていきたいなと思いますね。

土門さんは今どのくらいの数の穴を掘っているんですか。

土門

めっちゃ少ないですよ。4個とか?

(笑)。

土門

すぐ埋まりますしね。ゴミとか砂とか詰まってしまって。でも、感動する映画を観たり、おもしろい本を読んだり、誰かと熱心に話したりしていると、そのゴミとか砂とかがバーンと吹っ飛んじゃう、みたいなこともあるじゃないですか。

ありますあります。そしてすぐ詰まってしまうってことは、それを取り去ってくれる誰かと継続的に関係性を保つ、お互いに影響しあえる距離にいるってことも重要ですね。

土門

重要。というかこの「球体」の話も、今思いついたことなんですけどね(笑)。堤くんと話していて、堤くんの言葉や意見がビームになって、私の球体を掘ってくれたから出てきたアイデアなんですよ。

 

だから、「人と話して、もっと自分を知る」っていうのは、その人が自分のことを掘ってくれて、その穴から温泉が出て、「ああー私の中にこういう温泉も眠ってたか」って知ることなんでしょうね。

「見えているものは同じなのに見方が違う」が対話の始まり

でも人と会っても掘れそうで掘れないってことありません?その手管を知っておきたいなと思うのですが。

土門

私はこの手管って、小路口先生の言う「対話」だと思うんですよ。

 

今も対話できているなって思うんだけど、なんでそう思うかっていうと「怖いから」なんですね。わけわかんないこと話してしまってるよな、これちゃんと記事にできるかなって、話している間ずっと不安です(笑)。だから前もって「こういうところに落とし所持ってくか」と一応考えるんだけど、すると球体の表面だけで話してしまって、全然掘れない。

はい、はい。表面だけで話すのは「会話」ですよね。「対話」の方が圧倒的に難しい。

土門

答えのない問いについて話していますからね。新しい答えを作り出すわけだから、すぐわかるとか、綺麗にまとまってるってものでもないと思うんですよ。

プラクティスや学びの前に対話があるとしたら、対話ってどこから発生するんでしょうね?

土門

どこからだろう……勇気?

(同時に)知識?

土門

(笑)知識と勇気ですかね。ちなみに堤くんの言う「知識」って何ですか?さっき言った「布石」のこと?

いや、ファクトじゃないですかね。例えば「フランス」を知らないと「フランス料理」のことを話せないから、そもそもテーマにできないじゃないですか。知識=自分のグラウンドだと思うので、どれだけ幅広いフィールドでプレイできるか、知識量によって決まると思います。

 

RPGゲームのイメージが近いかも。RPGって、大体ゲームをスタートしたときって自分の持っている地図が超小さいんですよ。全体像が全然見えないんです。

土門

へー!

そもそもどこに何があるかわからないので、地図を広げていくしかないんですね。そして広げていくと、少しずつ強い敵や謎に出会えたり、次のフィールドに行けたりする。

 

対話をするためにも、その地図が必要なのかもしれない。みんな別々の地図を持っているし、スタート地点も違うんだけど、広げていくことで「被る」ところが出てくると思うんですよ。「あ、ここに火山があるよね」とか。その被る部分があるからこそ、対話が成立する。

土門

なるほど。被ってないと対話できないですもんね。「あそこに火山あるじゃん」「え、どれのこと?」じゃあ、対話にならない。

僕、古地図が好きなんですよ。あれって正確さを追求しているんじゃなくて、製作者が見たいように描いているはずで。「日本、こんなにデカくないけどなぁ」みたいな。でもそれは「自分を通して世界を見るんだ」っていう意識の表れのような気がします。日本は俺にはこう見える、みたいな。見えているものは同じなのに、見方が違うっていうのは、対話の醍醐味に通じますよね。

土門

もしも共通点がなさそうな相手でも、地図を広げあってみたら重なる部分があるかもしれない。その部分を見つけ出すのが、対話の始まりになるのかもしれないですね。だから自分の地図を恐れず差し出す勇気がないといけないし、知識を持って地図を広くしておかなくてはいけない。

 

勉強って、地図を広げる行為なのかも。自分イコール世界なのだとしたら、自分という球体の地図を広げていく行為な気がします。そこから対話が生まれて、掘られて、温泉が湧く。

重要なのは、世界の見方は自由でいいってことですよね。旅に出かけよう、地図を広げよう、でも「江戸城」は自由に描いていいよってことだと思う。いかに正確に再現するかではなく、自分からどう見えているか。

土門

森さんは、「自分がどう世界を見ているかが資源」とおっしゃっていましたが、まさにそういうことなのでしょうね。自分で地図を作っていく。それが広がって確立されると「世界観」になる。それが勉強なのかもしれないですね。

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EDITOR

堤 大樹
堤 大樹

26歳で自我が芽生え、なんだかんだで8歳になった。「関西にこんなメディアがあればいいのに」でANTENNAをスタート。2021年からはPORTLA/OUT OF SIGHT!!!の編集長を務める。最近ようやく自分が興味を持てる幅を自覚した。自身のバンドAmia CalvaではGt/Voを担当。

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岡安 いつ美
岡安 いつ美

昭和最後の大晦日生まれのAB型。大学卒業後に茨城から上洛、京都在住。フォトグラファーをメインに、ライター、編集等アンテナではいろんなことをしています。いつかオースティンに住みたい。

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