『with your eyes』連載第6回目は、一歩引いた眼差しで、世界を掬い上げるように写真を撮るフォトグラファー・小檜山貴裕にインタビュー。2008年に個展『二月のうち』を開催して以降、家族との関係性の中で生じる心のゆらぎを写しとった、いわゆる私写真を作品にしてきた。彼の撮る愛しい人の何気ない日常を収めた写真は、見る人の心に何かを訴えかける。「公私混同しちゃってるんですよね」と語るように、彼の写真との付き合い方は生活と地続きで、人生そのものが写真に反映されていると言ってもいいのかもしれない。新たな出会いとのよろこびも、別れの苦しみや悲しみも、常に写真と共にあったのだ。「人に見せる必要があるのかと思っていた」というそんなとても個人的な写真が、彼の写真家としての転換点となり、強みになっていく。
同じ時間を過ごしていたはずなのに、あの人が撮る写真はなにかが違う。そんな経験は誰しもにあるはずです。写真は「その人の生き方そのものだ」という言葉があるように、「経験・興味・視点」がレンズを通して露わになるのが面白いところ。
アンテナでは『with your eyes』と題して、西日本を拠点に活動するフォトグラファーのインタビューを行う連載をスタート。誰もが写真を気軽に発信できる時代だからこそ、「記録に留まらない、写真のあり方とはなにか」を、彼らのキャリアを掘り下げることで模索します。
小檜山貴裕プロフィール
1974年東京生まれ。
3歳から11歳までをアメリカ合衆国カリフォルニア州で過ごす。2008年の初個展以降写真作品の発表を続けている。
言葉にはしづらい写真ならではの表現について考え、”伝わる”より”感じる”を内包した写真を目指して制作している。現在京都在住。
website:https://noboka.net/
Instagram:https://www.instagram.com/kohiyamatakahiro/?hl=ja
はじめて撮った時の感動をまた味わいたくて写真を続けている
写真に興味を持ったのはいつだったんですか?
大学生の時です。京都工芸繊維大学でデザインを勉強していたんですけど、3年生の時に1人だけ写真をやっていた先生がいて、きっかけは忘れたけどその先生がカメラを貸してくれたんですよね。それまで写真なんてほとんど撮ったことがなくて、1年生の時に建築の図面を書いて作った立体物の記録写真を撮る必要があって、その時にお父さんが使ってたフィルムカメラを送ってもらったくらいで。先生に借りたカメラがけっこう特殊なやつだったんですけど。
なんていうカメラですか?
スピードグラフィックっていういわゆる大判カメラです。それを借りて写真を一枚だけ試しに撮ったらすごく良くて、写真の写りに感動しました。僕がそれまで課題で出していた写真は、35mmのネガフィルムで撮って町のラボで同時プリントしてもらってたやつで、それでしか写真を見たことがなかったんです。4×5(シノゴ)のポジフィルムで撮った写真をプロラボで現像して、ライトボックスに載せてルーペで覗いたら、まるでそこにいるような、すごく生々しい感じで。めちゃくちゃ綺麗だったんですよ。
ハッセルブラッドのファインダーは覗いたことがあるんですけど、それに近い感覚ですかね。
そうそう!反射光じゃなくて透過光で見るんですよポジフィルムって。はじめての体験だったというのもあるんですけど、こんなに綺麗に映るんだって。その感覚をずっと引きずっていて、その気持ち良さをまた味わいたくて写真をずっとやってるようなもので。
その後、どうやってフォトグラファーへの道を歩んでいったんでしょうか?
僕学生結婚をしたんですけど、子どもができてとにかく収入を得なきゃいけないと思っていて。でもデザインには全く自信がなかったので、写真なら撮り方はわかるし、もしかしたらできるかも、と。それでスタジオの面接を受けたりしたんですけど受からなくて。結局、アシスタントで雇ってくれたところに3ヶ月だけ行きました。
ちなみに、デザインを選ばなかったのはなぜですか?
デザインって、相手がいてそれに応えるもので、いわゆる自分の表現じゃないじゃないですか。まずその心がなかったですね……。その心が持てるか持てないかに、デザインをやっていけるかどうかの境界線があるんじゃないかなと思います。
デザインは自己表現じゃないですもんね。
当時は相手の注文に応えることをしたくなかったんですよね、多分。別に自分の表現手法を持てていたわけではないんですけど、ただ人と違うことがしたいとかいう理由だったと思うんですよね、当時のことを思うと。だから課題でも的外れなものを作って怒られたりしていましたね。
その時は表現手法として写真が一番しっくりきたんですか?
まず、簡単にできたような気にさせてくれますよね。でも突き詰めていくと難しかったり、その呪いにやられてしまうわけですけど。
写真はなんて残酷なんだろうと思いました
アシスタントの後はどのように活動していたんですか?プロフィールを拝見しましたが、ほぼ毎年のようにコンスタントに個展をされていますね。
アシスタントを辞めた後はもうフリーのカメラマンでやっていこうと思っていました。編集プロダクションでアルバイトしていた友達から「1回撮ってみたら」と言われるようになって、それで仕事ができていったというか。フリーランスのフォトグラファーといえば一応そうなんですけど、そこまでたくさん仕事をしていなくて。それでなぜ写真を続けてるかというと、周りの人たちが続けさせてくれるんです。展示とか企画に誘ってくれるので、その都度作品を作ってきただけで。
Instagramの投稿に「写真に恩返しをしていく」と書いていましたが、それは周りが写真を続けさせてくれることに対する恩返しなのでしょうか?
周りと写真の両方にですかね。元々、写真をやっている意識はあったんですけど、自分が写真作家だってことは言ってなかったんですよ。でも、はじめて2008年に『二月のうち』という個展をやった時から、少しずつ写真に対する向き合い方が変わっていきました。
その頃はウェディングフォトとか雑誌の取材系の仕事をしながら、家ではたくさん子どもとか家族の写真を撮ってたんですよね。それを人に見せるつもりも全くなく、ただ好きで撮っていて。でもその後、次男が生まれてすぐに病気で亡くなってしまって。生きてる間にいっぱい写真を撮ってたんですけど、なんて写真って残酷なんだと思いました。次男の写真を見ては辛い気持ちになっていて、それでも大事にしちゃうし、こんなに写真を見て気持ちがぐちゃぐちゃになるってとんでもないもんやなあ、と思いました。
そういう話を喫茶店の女店主にしてたら、喫茶店の上がギャラリーだったので、1回その写真を展示して自分の気持ちを整理してみたら?と言われて。かなり落ち込んでいたんで、「じゃあ、やってみよう」って1年後にはじめての個展を開きました。それまでは学校の課題の延長線上で写真を撮っていたんですけど、人に見せようと思っていなかった自分のプライベートの写真を見せるということが、ひとつ自分にとっての転換点になりました。
どんな風に写真への意識が変化していったんですか?
私写真というのかな、2008年〜2015年に自分の身の回りで起きていることを何度か展示するうちに、いつのまにか自分のプライベートな出来事を題材に撮る写真家みたいになっていました。僕は誰かを好きになったり恋愛をするとその人のことを撮りたくなるんですけど、別にそれを誰かに見せたいわけではないんです。でも、その人との“何か”を撮りたくて、自分にとって大切な人との関係性を写真のまとまりで見せられたらなと思っていました。
Webサイトのプロフィールに「言葉にはしづらい写真ならではの表現について考え、”伝わる”より”感じる”を内包した写真を目指して制作しています。」と書かれていますが、小檜山さんの撮りたい「その人との“何か”」がここでいう「感じる写真」の元になっていそうですね。
伝わるって、言葉に変わってしまうというか。言葉に簡単に置き換わるようなものじゃなくて、言葉にしづらいものを受け取れるのが写真だと思っていて。
小檜山さんは展示のキャプションやblogで言葉を書かれていますよね。伝えるには言葉が適切だとわかった上で、あえて写真では言葉に簡単にできないものを感じてもらおうとしているんですね。
そうですね。『二月のうち』をした時に、自分の家の中で起きていることを人に見せる必要がないよね、という気持ちがはじめあって。でも、写真展をしてみて思ったのが、僕にとっては自分のことですけど、観る人にとってはその人の経験や見てきたもの、生きてきた背景の中の、何か違うものとリンクするんだろうな、と。それでポッと何かを感じたりするんだろうなと思いました。自分が他の人の写真を観る時にそういう感覚があるので。
私写真ではありますけど、展示する写真は選んでいるんですよね。僕の子どもがあんなに小さくして亡くなりましたって伝えたいわけではなかったし、展示を見ただけではその事実はわからないようになっていたし、その展示を通して言葉にできないものを感じてほしいと思っていました。それを考えることが僕にとっての写真の表現なのかもしれないです。
そこに世界があるから写真が成立する
これまでの作品を拝見していると、個人的な体験が写真のテーマになっていますよね。どうやってテーマができるんですか?
2017年に大阪で『もうこわくて目があけられない』という個展をしたんですけど、その時プライベートでは、離婚して離れて暮らしてた高校生の息子から、母親が精神的にまいっているので一緒に住んでほしいと言われていました。息子と小学校高学年から中学校までを一緒に過ごせなかったことがずっと心残りだったので、すぐに返事をして3年間一緒に住んだんです。それで展示では、別れた家族との関係性の中で撮っていた写真を作品にしました。
常に家族の存在が良くも悪くも心をザワザワさせて、そういう家族との関係の中で感じたことが写真をすることに繋がっています。常に公私混同しちゃっているというか、プライベートで辛いことがあったらやらないとか、うれしいことがあったらやる気になったりとか。僕と写真との付き合いはそういう感じですね。
日常の心模様が写真にも影響するわけですね。
でもそれは、自分で表現したいものが未だにわからないのも原因だと思います。そしてその根本には、写真は表現じゃないというのがあるんですけど。そもそも世界があってはじめて写真が成立するわけで、表現というよりもっと受け身で、掬い上げるということが近いかもしれないですね。
少なからず写真には自分の意志が介在しているものだと思っていましたが、すでにそこにあるものを拝借していると。
その意識はありますね。そこにある景色が素晴らしいわけであって、別にそれを撮ったからといって撮った人がどうということではないというか、極端にいえば。でも、写真家として生きるということを考えた時に、そうじゃダメだなって気持ちはすごくあるんですよ。
「写真家として生きる」とはどういうことですか?
それでも撮るのが写真家のあるべき姿だと思います。
いまご自身のことを写真家だと思っていますか?
写真家だって、言っていますね。自分で思ってるか思ってないかと言われるとちょっとわかんないですけど、でも辞めない覚悟で自分のことを写真家と名乗っています。
お気に入りの一枚
2006年頃。小学校に上がる前の息子を京都御所で遊ばせながらその横で記念撮影の仕事をしていました。撮影を終えた時、フィルムカウンターは11。カメラを片付ける前にフィルムを巻き上げたかったので、息子を呼んで 「一枚しか撮れないから目を瞑らないでね」と念を押して撮った一枚。シャッター切った時はがっくりきたけど、現像してみたらこれは良い写真だと思いました。この一枚が後に作った『めをつむってみる』という作品集の始まりになります。